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回向院にて [歴史]

 都営地下鉄の駅がある、文京区白山。坂の多い町である。道路沿いは商店街だが、路地を入れば民家と寺と学校が寄り集まっている。都心にありながら高い建物の少ない、ちょっとのんびりした景色である。

 白山上の交差点から旧白山通りを本郷に向かってしばらく歩くと、左手に大円寺という禅寺がある。その境内の入口近くにあって目を引くのが、「焙烙(ほうろく)地蔵」という地蔵尊だ。素焼の土鍋を頭にかぶった、ちょっと風変わりなお地蔵様で、ご由緒を読むと、「八百屋お七」に因んだものだという。

 八百屋お七は江戸時代初期に実在した本郷の八百屋の娘(養女)で、1682(天和2)年の「天和の大火」で或る寺に避難した時に、吉三郎という寺の小姓と恋仲になり、その翌年に再会を願って放火未遂を起こしたために捕えられ、鈴ヶ森で火刑に処せられた。後に井原西鶴が『好色五人女』の中にこのエピソードを取り上げたことでお七は有名になり、浄瑠璃や歌舞伎でも取り上げられている。

 数えで十六の若さで死罪となったお七を供養するために享保年間に建てられたのが焙烙地蔵だ。火刑という灼熱の苦しみを共有するために、お地蔵様は焼いたばかりの土鍋を頭からかぶっているのだという。火事の多い江戸では、やはり放火は重罪だったのだ。
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 江戸の大火といえば、何といっても1657(明暦3)年の「明暦の大火」だろう。今の暦に直すと3月2日のことだという。日によってはまだ冬型の気圧配置で、強い西風が吹くこともある頃だ。若くして亡くなった娘の供養の時に、娘が着ていた振袖を火の中に投げ込んだところ、突然のつむじ風に舞い上がった振袖が寺の本堂に飛び込んだことが火事の発端になったという伝承から、別名「振袖火事」とも呼ばれている。実際には本郷、小石川、麹町で相次いで発生した火事が火元であるようだが、ともかくも江戸の街の6割以上が焼け、飛び火によって江戸城の天守閣も焼け落ちてしまった。(以後、江戸城は天守閣のないまま明治を迎えている。) 死者は3万人とも10万人とも言われる、世界史上有数の大火災である。

 明暦の大火による大量の犠牲者を弔うため、四代将軍・家綱の命によって隅田川の川向うに回向院(えこういん)が創建された。JR両国駅の南、京葉道路を渡った所にその寺は今もある。西に向かえば程なく隅田川で、そこに架かる両国橋は、隅田川に橋がないために明暦の大火で市民が逃げ遅れ、大量の焼死者が出たことを踏まえて幕府が建てたのが最初である。それは、人々を川の東側に移住させるための手段でもあったようだ。
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(歌川広重 「名所江戸百景 両国花火」)

 「諸宗山無縁寺回向院」という名の通り、宗派にとらわれず無縁仏を引き取ってきた回向院を訪れてみると、なるほど、過去の大災害における犠牲者を弔う石碑が並んでいて、歴史の教科書のようだ。この寺の開山の目的である「明暦大火横死者追善供養塔」が建てられたのは1675(延宝3)年で、これは都の指定する有形文化財である。
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(明暦大火横死者追善供養塔)

 その左側に建つ「天明三年癸卯七月八日信州上州地変横死者諸霊魂等」とあるのは、天明の浅間山大噴火のことだろうか。そしてその左隣には「大震災横死者之墓」、言うまでもなく大正12年の関東大震災の時のものである。更には幕末の18551(安政3)年の安政大地震の横死者供養塔も。これらを見ていると、なるほどこの国には昔から天災が多かったのだと、改めて思わざるを得ない。
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 犠牲者への供養は、祈りを捧げることだけとは限らない。いや、むしろ生き残った者が元気な姿を見せることだって立派な供養の一つだ。回向院では、1768(明和5)年から明治の末期まで、この境内で「勧進相撲」が行われたという。当初は不定期の開催だったのが、1833(天保4)年からは年二回の定期興行となった。それが大相撲の起源であることはよく知られている通りだ。明治42年にはこの場所に国技館が建てられた。回向院の境内に入るとすぐ左に、歴代相撲年寄の霊を慰める、見上げるような大きさの「力塚」が豪快である。
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 関東大震災から88年後の今年。「東北関東大地震」は、この国の歴史に新たに刻まれるべき未曾有の大災害となった。今は一刻も早い人命救助が最優先事項であると同時に、寸断されたライフラインや交通インフラ、とりわけ電力不足の中で、国民はこの難局を乗り切って行かねばならない。残念ながら、元気な姿を見せて犠牲者を供養するのは、当分先のことになるだろう。震災の前に「自滅」してしまった大相撲はともかく、プロ野球もJリーグも、その開催自体が危ぶまれている。

 回向院に並ぶ供養塔は、この国の大災害の歴史でもあるが、それでもなお、この国が立ち上がってきたことをも教えてくれている。本当の苦難はこれからなのだろうが、祖先たちがそうしてきたように、我々もまた、力を合わせてそれに耐えていこう。

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