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いつものように [自分史]


 夜半の雨は、もう上がっていた。

 リビングルームのカーテンを開けると、朝の光が飛び込んでくる。私はその感触が好きだ。ベランダに出て空をぐるっと眺めわたすと、頭の上を覆っている雲が西へ行くほど薄くなり、真西の方角は新宿の高層ビルの背後に青空が見え始めている。天気予報によれば、今日の東京は初夏の陽気になるという。眼下の街路樹は昨日よりもまた一つ緑が濃い。風も爽やかでいい季節になった。

 6時45分、いつものように一家四人が食卓を囲み、我家の朝食が始まる。朝はしっかり食べる、というのが昔からの我家の習慣で、今朝もおなじみのメニューが色々と並んだ。一家で食卓を囲むといっても、朝食だからせいぜい15分程度のことなのだが、毎朝四人揃って何でもない会話を交わす、そういう時間を持ち続けてこられたのは幸せなことだと思う。中味は忘れてしまったが、今朝もある話題で四人が大笑いをした。

 社会人としての自分の人生の中で、今日は一つの節目の日になるのだが、だからといって特別なことをする気もなかった。いつものようにネクタイを締めて背広姿になり、日経新聞を小脇に抱えて玄関を出る。家ゴミを出しにいく家内は、いつものように私と一緒にエレベーターに乗り、一階の通用口で手を振ってくれた。

 駅までの道を歩きながら、ふと思う。毎朝ヒゲを剃り、ネクタイを締めて通勤をする、大学を卒業してそんな社会人生活が始まったのは、今から30年と1ヶ月前のことなのだが、そういう歳月が過ぎたという実感がちっとも湧いてこない。家の前の桜並木がいつもの春と変わらない鮮やかな緑を今朝も見せてくれているように、その下を歩いている自分も、あの駆け出しの頃の自分と基本的には同じだ、という気分がどうしても抜けない。まして、明日からの自分も、今日までの自分から変わりようがないのではないか。
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 30年と1ヶ月前。1980年代の初めといえば、今から思えば牧歌的な時代だった。

 大学4年の秋にヨーイドンで始まった就活は(その「就活」という言葉さえなかったが)、一週間から十日ほどのお祭り騒ぎでほぼ全容が決まっていた。内定をもらったら、後は卒論を書くぐらいだ。そして、その卒業前は友達とバックパッカーになって、異国へ貧乏旅行に出かけるのがお決まりだった。

 そして迎えた4月1日。入社式では会社のトップから新人が一人一人辞令を手渡され、それから始まる二週間の合宿研修で社会人としての基礎や仕事のイロハをじっくりと教わってから、最初の配属部署へと赴く。私の場合はそれが地方都市だったのだが、その任地では、今から思えば一生頭が上がらないほど、学生上がりの私たちを懇切丁寧に育てて頂いたものだ。

 携帯電話もパソコンもなく、人がボールペンで稟議書を書いていた時代。社内の管理計表も、大型コンピュータから連続用紙に吐き出されたカタカナと数字だけの、極めて限られたものだった。電卓を叩いて数字を割り出し、手書きのグラフを作り・・・。ビジネス上の判断材料の多くがそうした人間の手作業に依っていた訳だから、今から思えばビジネスのスピード感だってその程度のものだったのだ。その代わり、会社は土曜日も営業していた。

 人々は、その時代なりに目一杯仕事をしていた。「ライフワークバランス」などという玉虫色の言葉もなかったから、先輩方は朝から深夜まで働く仕事人間ばかりだった。そういう中で受けた指導は厳しかったが、自分の仕事が忙しくても、手間と時間をかけて若手を育てていくんだという風土が、会社の中には脈々としていたように思う。それが代々引き継がれることで会社のカルチャーも続いていくのだという、暗黙のコンセンサスと言えばいいだろうか。全員の終身雇用が前提だったからだと言われれば、確かにそうなのだが。

 きちんとした「若手教育マニュアル」がある訳でもなく、"OJT"の名のもと、先輩の仕事の下請け作業がどんどん降ってきて、ついでに雑務も山ほど飛んできた。本社では終電で帰る毎日。休日出勤が当たり前の部署もたくさんあった。そして、ようやく仕事も覚え、雑務をこなす要領が身についた頃には人事異動があり、ゼロクリアーでまた新しい業務分野へ。ローテーションとはそういうものだが、どこへ行っても尊敬すべき先輩方や素晴らしい同僚たちと出会うことができた、本当に恵まれた環境だったと、今もつくづく思う。

 繰り返しになるが、これはビジネスがそういうスピード感で動いていた時代のことだ。あの頃は良かったなどと言うつもりはないし、単純に今と比較すべきことではないだろう。
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 そんな丁稚奉公の時期も過ぎて私が十年選手になった頃に、時代は'90年代に入っていたから、それからの人生は、バブル崩壊以降の「失われた二十年」と基本的に重なっている。だから、歳月の経過と共に世の中全体も会社の中も万事余裕がなくなっていった。私が若い頃にじっくりと育ててもらったような、そんなカルチャーを会社としては何とか残したかったようだが、時代の荒波がそれを許してはくれず、21世紀になってからは他社と合併をすることになった。会社は名前を変えて生き残ったが、その中身が昔とは全く別物になっていく過程の中で、私は今世紀の10年を過ごした。

 敢えて言おう。時代の巡り合わせが悪かった、不運だったなどとは、決して思わない。むしろ、時代が大きく変わっていく、その中で得がたい経験をたくさん積ませてもらったと思っている。それらは、断じて金銭の価値に置きかえることなど出来ないものだ。激動の時代に海外に長くいて、自分なりに視野を広げることになったし、外国人も含めて色々な人との新たな出会いが数多くあった。結果的には、そうしたことの一つ一つを通じて、英語でのビジネスをキャリアの軸にした今の自分がいる。そう思うと、そんなチャンスを与えてくれた会社には、何はさておき頭を下げなければならない。

 過ぎた歳月をちょっぴり思い出しながら電車に揺られ、昨年の春から出向している今の会社に今朝も出社。そこでいつものような時を半日過ごした後、私は再び電車に乗って都心へ出た。

 東京のど真ん中の、見慣れたオフィス街。30年と1ヶ月前、私が新入社員としての辞令を受けた本社ビルは、まだ昔の姿のまま残っている。だが、入館する今日の私は、社員ではなく来客としての扱いだ。

 今の出向先に対して、私の身元保証人のような立場の部署が、本社の中にある。約束通り15時ちょうどにその部署の部長を訪ねると、応接室で「退職金」と書かれた封筒をうやうやしく手渡された。代わりに私は社員証と徽章を返却する。来週の5月1日からは出向先の社員になる、いわゆる転籍というものだ。

 確かに、自分の人生の中ではこれが一つの大きな節目なのだろう。だが、今日をいつものように過ごしたいと朝からずっと思っていたから、ここでも私は手続きを淡々と済ませ、部長とは震災後の今の会社の話をして、30分ほどで「儀式」を終えた。来客用の名札を受付で返して本社ビルを出ると、外にはいつもと変わらぬオフィス街の景色があった。
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 30年と1ヶ月。「万感の思い」という程のものもない。冒頭にも書いたように、明日からの自分は今日までの自分から変わりようがないからだ。これまでの会社員生活で胸に刻んだことを、これからも人生の羅針盤にしていくことになるのだろう。

 社会に出れば、何事も因果応報。自分がしたこと、してこなかったことは、巡り巡って最後は自分に降りかかってくる。それは、自分以外の誰のせいでもない。
 そして、世の中で百の報酬を得るためには、二百も三百も努力が要る。仕事とはそういうものだ。その努力をせずに報酬ばかりを得ようとしても、それはいつか自分に跳ね返ってくる。
 だからこそ、仕事を通じた人との出会い、一期一会の大切さを噛みしめて、どこへ行っても謙虚に教えを乞い、謙虚に学ばなければならない。

肩に力を入れず、いつものように、明日からも生きていこう。

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