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体感する山 [読書]

 信州の代表的な景勝地といえば、上高地。梓川に架かる河童橋に立つと、岳沢を囲むようにして正面に聳える穂高の山々は、何度見ても神々しい姿である。

 日本の元号が明治から大正に代わったばかりの1912年8月、英国人宣教師のウォルター・ウェストン、山案内人の上條嘉門次ら4人のパーティーが、この上高地から岳沢を登り、奥穂高岳の南稜に取り付いて、この山の南面からの初登攀を成し遂げた。

 ウェストンは三度の来日で延べ12年を日本で過ごす間、英国時代からの趣味であった登山に精力的に出かけ、その著書などを通じて「日本アルプス」の名前を世界中に紹介したことで知られる。その功績を称えて上高地には彼のレリーフが置かれ、毎年6月の最初の土日はウェストン祭が開かれている。
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(上高地・河童橋から望む岳沢と穂高の山々)

 ウェストンらによる奥穂南稜の初登攀から一世紀後になろうとする今、彼らと同じルートを歩き、その足跡を追うことによって「彼らの見た風景を目にし、彼らの感じた喜び、そして恐怖を味わってみたい」と思う登山愛好家がいたとしても、それ自体は不思議なことではないだろう。だが、ウェストンを案内した当時の上条嘉門次と同じ服装・装備で出かけようとまでする人はいるだろうか。

 「まず、廃材と藁紐で背負子をつくった。装備にこだわったのは、100年間でわれわれが何を手に入れ、何を失ったのかを手で触り、実際に使ってみることで感じたかったからだ。脚絆を巻き、最低限の装備を載せた背負子に笠をくくりつける。頭には和てぬぐい。嘉門次が頬かぶりとして愛用していたとウェストンの著書にある。」

 今週、街の書店で出会った『百年前の山を旅する』 (東京新聞 刊)の著者、服部文祥氏はそこまでのこだわりを持ち、足袋に草鞋を履いて山に向かったのである。

 松本方面から上高地行きのバスが走る梓川沿いの道路は、ウェストンの時代にはまだなかった。だから、彼の足跡を忠実に辿るとしたら、島々という集落から深い谷の中の道を延々と登って標高2100mの徳本峠(とくごうとうげ)へと一旦上がり、更に標高1500mの上高地へと降りて、それからやっと穂高へのアプローチが始まることになる。無論、服部氏はそうした「不便さ」を敢えて体感することで、山に登ることのプロセスを楽しんでいるのである。
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(ウェストンが歩いた、島々から奥穂高岳へのルート)

 世界第二位の高峰・K2(8611m)の登攀歴もある服部氏は、一方で「サバイバル登山家」としても知られている。山へ行くのに食糧は米と調味料ぐらいで、猟銃で獣を捕らえて食べる。コンロも持たず、調理は焚き火。夜はその火の傍でゴロ寝だ。

 「貴いようで、フタをあければ不細工な、安全と快適と便利たち。私は単純に昔の人々にあこがれている。単純に現代文明を否定している。それは、自然が力を持っていて、人の自意識を押さえ付けていた時代の清々しさが好きだからだ。個人の肉体と能力に存在感があった時代の誠実さが好きだからである。そして私の登山の基本もそこにある。」

 「現代文明を否定している」といっても、それはもちろん山の中での話だ。服部氏とて現代人。普段の生活では現代文明にどっぷりと浸からざるを得ないのは私たちと同じだが、その分だけ、山の中では生身の肉体だけを目一杯使って山を感じているのだろう。

 こういう人だから、思いつくのはタフな計画ばかりだ。

 1909年に日本で初めて「縦走」という登山形態を試みて、高尾から陣馬山、笹尾根、三頭山、そして雲取山へと歩き続けた木暮理太郎・田部重治と同じコースを、やはり当時の服装・装備でサバイバル登山してみたり、「越前・小浜の鯖は本当にその日のうちに京都に届けられたのか?」を検証したくて「越前鯖街道」を一昼夜で歩こうとしてみたり、更には、国境警備のために加賀藩が行っていた「黒部奥山廻り」の苦労を体感してみようと、黒部峡谷から鹿島槍ヶ岳に登る古道を探してみたり・・・。そういう発想の一つ一つが尊敬に値するが、そんな話ばかりを集めた『百年前の山を旅する』は、とにかく山の匂いがプンプンする本である。
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 私には、服部氏のようなサバイバル登山の術がない。それに、学生時代と比べてみれば、近年の山道具や衣類などの進化ぶりは驚くばかりで、昔よりも遥かに快適に山を歩くことができるから、実年になってからの山歩きでは、つい楽をすることばかり考えるようになった。クルマで行ける所まで上がってしまうことも少なくない。「時間がない」、「忙しい」ことを理由に手抜き登山をしている面も、決して否定はできないだろう。最近は山の上でも携帯電話の電波がかなり届くし、どうも緊張感がない。昔のように空や雲を注視しながら天気の変化を読むようなこともしなくなってしまった。

 しかし、だからこそ、服部氏のように個人の肉体の能力の全てを発揮し、全身全霊を傾けて山と向き合うことの大切さを、その著作を通じて私たちは感じるのだろう。獣を捕まえることはともかくとして、愚直に登り、愚直に眠り、そして愚直に雨に濡れながら山の大きさを体一杯に感じ取ることが、たまにはあってもいいはずだ。

 大正元年当時の嘉門次と同じ服装・装備でやってきた服部氏は、奥穂の南稜でトリコロールという三つの岩峰を越える所も足袋に草鞋である。南稜は岩登り用の今ではポピュラーなコースだが、嘉門次と同じスタイルを貫くなら、ハーネスを着けてザイルで仲間と結び合うこともできない。

 「現代装備を持っていないというだけで、穂高岳を新鮮に感じた。いつもより雪渓や岩が鮮やかに見える気がするのだ。登るほどに山が色濃く輪郭がはっきりしていくようだ。」

 自分の体一つだけの真剣勝負になるのなら、山もきっとこんな風に見えるのだろう。

 大学に入ってすぐの5月、先輩達に連れられて、私もこの奥穂の南稜を登ったことがあった。岩登りはまだ駆け出しの頃で、何をするにも無我夢中だったが、南稜の岩に取り付いてトリコロールを越えるところは非常にスリリングな高度感があったことを覚えている。

 そして、登りつめた奥穂高岳の山頂からジャンダルムという岩峰までの間の稜線が文字通りのナイフ・リッジで、人間が一人歩けるだけの幅の両側はすっぱりと切れ落ちた雪の斜面。西からの強い横風に耐えながらの歩行になった。ピッケルを構えてはいたものの、何かの弾みで左右どちらかの斜面に転落したら、恐らくは止まれなかっただろう。

 そういう箇所を慎重に通過した後、私たちは扇沢の急な雪渓を降りた。幾分か傾斜が緩くなって少しホッとするまで、岩の経験の浅い私には穂高の岩と雪がいつもよりくっきりと見えていたという印象が、確かに今も残っている。現代装備を持っていてさえ、そうなのだ。まして徒手空拳とあれば、穂高の山々は更に大きく、厳しく、私の前に立ちはだかっていたことだろう。

 奥穂の南稜を登り、扇沢を降りる。今から思えば、当時の私たちはウェストンと嘉門次の初登攀と同じルートを上り下りしていたことになる。山の匂いに満ちたこの本は、34年も前のそんな体験を久しぶりに思い出させてくれた。

 なお、まるで昔の山登りを知る者へのご褒美であるかのように、この本の最終章には実に懐かしいアイテムが登場する。それは、「ラジウス」という真鍮製の重たい石油ストーブ(火器)である。着脱も点火も実に簡単な現在の登山用ガス・コンロとは比べ物にならないほど手のかかる火器だったが、そのあたりがクラシック・カーや蒸気機関車のような、どこか温もりのある道具でもあった。詳しくは本書を読んでのお楽しみである。
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(本書にも紹介されていた山道具店のHPより拝借)

 連休も近い。次の山の計画を立てることにしようか。

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