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百年前の光芒 [歴史]


 雨の季節である。

 沖縄は観測史上最も早く梅雨が明けたそうだが、本州はまだ前線の通り道にある。といって、毎日降り続くわけではなく、週に何日かは晴れ間の出ることがあるのだが、それが週中だったりすることが多い。

 今週末も、昔の山の先輩たちと少し遠出をする計画があり、多少の雨でも登ろうということにしていたのだが、この週末に限って西日本を中心に大雨との予報が出たので、さすがに中止とせざるを得なかった。早くから日程を相談していても、この時期の山はなかなか難しいものである。

 そんな訳で、東京に沈殿していた今週末。雨の土曜日は本を読み、結果的に日中は降らなかった日曜日には、紫陽花(あじさい)でも見ようかと、昼過ぎになって家内と散歩に出ることにした。

 東京・文京区の白山神社。我家からゆっくり歩いても30分足らずである。境内に紫陽花が多いことで知られ、今は「文京あじさい祭り」が始まったばかりだ。「白山上」、「白山下」という地名が示す通り、このあたりは顕著な台地になっていて、神社は南向きの斜面の上にある。白山通り側から参道を歩いていくと、案外急な坂道だ。
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 ご由緒は古い。天暦年間(947~957)に、加賀国一ノ宮である白山神社をこの地に勧請したそうである。その後、陸奥の安倍氏を討伐する「前九年の役」(1051~62)で奥州に向かった八幡太郎義家がここを通りかかった時、白い花を咲かせた桜の木の前に源氏の白旗を立てかけて戦勝を祈願したことから、神社の前の桜の木が「白旗桜」と呼ばれるようになったという。その時代、現在の東京の下町は治水が行われる前で見渡す限りの湿地帯であったようだから、人や物の往来は山の手側を経由していたのだろうか。

 「あじさい祭り」のため、白山神社の境内には食べ物を売る出店が並んでいて、なかなかの賑わいである。お目当ての紫陽花の数々は、まだ開花していない木が幾つかあるものの、この時期らしい淡い色の花を見せてくれている。一口に紫陽花といっても実に多彩で、様々な種類の花を楽しめるのがいい。雨の季節だからこそ、湿度の高いその空気によく映える紫陽花の淡い花。この国の自然とは上手くできているものである。
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 ひとしきり紫陽花を楽しんだ後、社殿に向かって右側の参道に向かうと、そこに一片の石碑が立っている。「孫文先生座石」という文字と、あの革命家・孫文(1866~1925)のレリーフ。白山神社と孫文がいったいどういう関係にあるのか。初めてこの碑を見るまで私も知らなかったのだが、実はこの両者を繋いだのは宮崎滔天(みやざき とうてん、1871~1922)という、明治の日本が産んだ限りなく「熱い」男である。

 滔天は肥後国・荒尾の郷士の家に末っ子として生まれた。この家はどんなDNAを共有していたのか、兄弟は皆、この激動の時期に社会運動に走った。滔天より20歳年上の長兄・宮崎八郎は、中江兆民の『民約論』に影響を受けて初期の自由民権運動に参画。明治新政府の専制に反発し、西南戦争が始まると薩軍に与(くみ)して、八代で果てた。西南戦争を描いたドラマなどにはよく登場する人物である。

 滔天は物心つくと、徳富蘇峰が主宰していた大江義塾、そして大隈重信の東京専門学校に進み、自由民権運動を学ぶと共に、アジアの革命・解放を目指すアジア主義運動へと傾倒していく。兄・弥蔵から、アジアが自由と人権を取り戻すためのキーポイントは中国の動向であり、中国の革命にこそ命を捧げるべきだと説かれて共鳴し、20歳でその兄と共に上海に渡航。しかし程なく金が尽きて帰国し、親兄弟を欺いてまでして家財を売り払い、中国の革命に賭ける。そんな風にして金を使ってしまうから、妻子とも別居し、貧窮の日々であったという。
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(宮崎滔天)

 その後、縁あって犬養毅から援助を受け、中国の動向を視察するための外務省機密費を支給されて中国に渡り、各地で中国の革命家と接触を続けるうちに、東京に居住する孫文の存在を知り、帰国して面会をすることになった。時に1897(明治30)年のことである。滔天は孫文の革命思想に深く胸を打たれ、以後生涯にわたり孫文を支援し続けることになる。

 だが、孫文も滔天も革命家としては失敗続きの人生だった。滔天は金を稼ぐために浪曲師になったこともあるという。それでも志を捨てず、金もないのにアジアの革命家を支援し続ける。西太后のクーデターによって香港に亡命していた康有為を日本に連れてきたり、フィリピンの独立運動に参画したり、東京に乱立していた中国革命運動の興中会・華興会・光復会の大同団結に奔走したり(これは1905年の中国革命同盟会の創立という形で実現する)・・・。いつも金がなく、粗末な衣服で「ボロ滔天」などと呼ばれながら、アジアの革命に惜しみない支援を続けた、滔天のこの尋常でないエネルギーはいったいどこから湧き出てきたのだろう。

 1910(明治43)年5月半ばのある夜、白山神社に近い小石川原町に住んでいた滔天は、孫文を連れてこの神社にやってきた。そして二人で境内の石に腰掛けながら、清朝打倒の機運高まる中国の将来について抱負を語り合っていたところ、夜空に光芒を放つ一筋の流星が現れ、それを見て二人は中国革命の成就を心に誓ったという。
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 くだんの「孫文先生座石」の碑は、そんなエピソードを伝えるために、昭和も50年代になってから立てられたようだ。「夜空に光芒を放つ一筋の流星が現れ」という部分は話ができ過ぎているような気もするが、実際にこの年の5月中旬にはハレー彗星が大接近をして世界各地で目測されているので、あながち全部がフィクションとも言い切れないものがある。ともあれ、中国で辛亥革命が起きる前年のことである。(言い換えれば、今年の秋は辛亥革命百周年にあたる。)

 その辛亥革命においても、孫文はあっという間に失敗してしまった。そして、袁世凱が権力を握った中国に対して、日本は1915年に火事場泥棒的な「対華二十一ヵ条要求」を突きつける。時の首相は、かつて滔天が学んだ東京専門学校の創立者・大隈であった。孫文にも滔天にも、掲げた理想に対して現実は余りにも遠くかけ離れたものであったことになる。

 滔天は51歳で病没。その前年まで度々中国に渡航していたという。そして孫文は3年後に滔天の後を追った。

 紫陽花見物のつもりが、ちょっとした近代史の旅になってしまった。まあ、それも悪くない。それから根津へと足を伸ばして、家内との散歩は二時間ほどになった。
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