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今問い直す「戦前の日本」 [読書]

 「東北の被災地では避難生活がまだ続いているのに、この時期になぜ政局なのか。」
 「国民不在の永田町には危機感がないのではないか。」

 先週の「内閣不信任案」をめぐる茶番劇を見せられた国民の多くは、溜め息すら出ないような思いにとらわれたのではないだろうか。辞任時期をはぐらかす現首相に対し、辞めろというばかりでその後の構想は与党にも野党にも何もない。政治家たちが何と言おうと、この国の未曾有の国難とは違う場所で彼らの中だけの論理がぐるぐると回っている。この大事な時に、政党政治とは所詮こんなものなのだろうか。

 「政党不信は結局やっぱり疑獄とかそういう事から出たわけですが、それにもまして選挙におけるいわゆる民政党、政友会が敵味方になって争うという事、この分裂状態というものが、国家の安全保障を考えている軍人の目から見ると耐えられない。」
 (陸軍中佐・鈴木貞一の発言)

 そんな思いから関東軍が満州事変を起こし、政党政治の体たらくに愛想を尽かしていた国民がそれに喝采をあげ、日本全体が戦争とファシズムへの道を突き進んでいった・・・。そんな風に語られることの多い1930年代の日本。当時の国民は今の我々と同じような思いの中にいたのだろうか。

 「満州事変と国際連盟脱退によって国際的な孤立に陥った日本外交は、東アジア地域に排他的な自給自足圏を確立し、英米の『持てる国』に対して、『持たざる国』として対抗する。その結果が日中全面戦争からアジア太平洋戦争に至る日本の国家的な破局だった。」
 (引用書後述)

 和暦で言えば昭和4年から14年までにあたる1930年代の日本について、従来私たちはこのように理解してきた。石原莞爾、松岡洋右、大川周明、近衛文麿らの人物像について語られる時、背後に流れる「通奏低音」はいつも、凡そこんな感じのものである。

 だが、日本が独善的になって世界から孤立し、自分の論理の中に閉じこもっていった時代というような理解とは正反対に、それは日本にとって過去に例を見ないほど世界が広がり、世界の各地域や国際社会への理解を深めていった時代であった。軍部から自立して通商自由の原則を掲げた経済外交を日本は展開し、所詮は自給自足圏たり得ない「東亜ブロック」経済圏よりもブロック外との通商・貿易を進めていた。国際連盟脱退の経緯をきっかけにして国際社会への理解が深まり、中国との戦争を通じて中国への再認識が国民の間で高まった。更には、この時代は「民主主義国」と「ファシズム国」の境界線が曖昧で、第一次大戦後の世界恐慌という危機を克服するために、世界中の国々が大なり小なり「全体主義」の色彩を持っていた・・・。

 当時残された様々な資料や史実を紐解きながら、「『ヒト・モノ・カネ』が地球的規模で拡大した」1930年代の日本に対する先入観をゼロ・クリアーにしてくれるのが、『戦前日本の「グローバリズム」 - 1930年代の教訓』 (井上寿一 著、新潮選書)である。私にとって、今年出会った本の中で最も興味深いものの一つと言えるだろう。
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◆「満州は我国の生命線」という松岡洋右の有名な言葉や、ソ連と対抗するために陸軍が満州支配にこだわったことから、私たちは満州という地域が日本にとって失うべからざる宝庫であったというイメージを持ちやすいが、日本が満州に持っていた権益とは大連や満鉄線沿線の「点と線」だけであり、本土からの民間投資も殆どなく自立のできない地域で、「日満ブロック」を作ったところで日本は自給自足が図れる訳でもなかった。

◆満州事変の翌年(1932年)12月にジュネーブで開かれた国際連盟の臨時総会。国内では対外協調外交が各方面から支持されており、松岡洋右を含む日本代表団は連盟脱退の回避に全力を挙げていた。この総会が対日非難の報告と勧告案を可決しても、連盟規約上、日本はそれを無視すればよい。だが当時、関東軍による熱河(満州国内で万里の長城の東端に近い地域)への侵攻作戦開始が時間の問題になっていた。これが始まると、日本による中国への新たな武力攻撃と解釈され、連盟規約に基づいて加盟各国による制裁行動が発動されてしまう。ならば、その前に連盟を脱退する他はない。松岡は(個人の意思ではなく)本国の指示を受けて、脱退の意思を体で示すようにして退席した。

◆国際連盟を脱退はしたが、日本は軍縮会議には留まり、国際連盟に関連する各種の国際会議には参加を続けた。(ドイツはいずれも脱退。) 国際連盟からの脱退が国際社会からの孤立に直ちにつながった訳ではない。

◆満州事変の後も日本外交は英米との協調路線を模索し続けたのに対し、人種差別思想をあからさまにしたナチス・ドイツ(ましてムッソリーニのイタリア)とは仲が良くなかった。

◆「持てざる国」日本は、英国のように特恵関税ブロックを形成しても恐慌の克服はできない。日本の恐慌克服策は、蔵相・高橋是清が主導した、金本位制から離脱して円安を誘導することによる輸出の拡大であり、その結果日本が引き起こしたのは、経済ブロック間の対立ではなく、自由主義的な通商・貿易政策がもたらした貿易摩擦であった・・・。

 本書が教えてくれることの数々は、「戦争とファシズムの時代」という色眼鏡でステレオタイプされた1930年代の日本への先入観を覆すものだ。

 今から80年ほど前の時代とはいえ、人の世というものはそれほど単純なものではない。当時の政党政治に対して国民がどれほど愛想を尽かしていたとしても、だからといって、単色に塗りつぶされた狂気の世界へ1億全てがまっしぐらに突き進んでいったというような、そんな単純な話が真実ではないはずだ。軍部という一種独特の組織を抱えながら、国家の運営を預かる当事者たちが、その時々のベストを求めて英知を集め、軍部の意向とは別に現実的な外交政策を押し進めていたとしても、何の不思議もないだろう。

 このように観察し直してみた「1930年代の日本」が、現代の私たちに示唆するものは何か。

 当時の世界が、「自由貿易」=グローバリズムか「自給自足圏」=リージョナリズムか、というような単純な図式ではなかったように、今の日本を取り巻く課題は(TPPを巡る議論に見られるような)「『第三の開国』対『新鎖国論』の対立ではなく、両者の均衡において政策を構想し具体的に展開すること」だ。

 次に、「日本の政治の国際標準化」が求められる。経済恐慌からの脱却を目指して各国が経済政策を競った1930年代と同じように、リーマンショック後の世界各国は大規模な財政出動や中央銀行のバランスシートの拡大など、それぞれに経済政策を競い合い、そして米・英・日で政権交代が実現したように、新しい国内政治体制の模索が試みられてきた。だが、ひとたび原発事故が起きればたちどころに世界から厳しい眼差しで見られるように、「今の日本も国際標準の政治体制の確立が重要」である。

 そして三点目は、私たちが模索しなければならない「新しい国家像の創出」である。バブル崩壊後の「失われた二十年」と少子高齢化から、日本社会は停滞が続き、人々の「内向き志向」がつとに指摘されている。だが、世界の国々がいずれ抱える課題を先取りし、「日本は成熟した先進民主主義国として、国際社会の安定勢力となるために、新しい国家像を創出しなければならない」

 著者による巻末のまとめは、実に的確である。「歴史に学ぶ」とは、こういうことを指すのだろう。

 著者とは観点がやや異なるが、対外戦争の結果として海外に領土を保有することになり、その運営に大真面目に取り組んだ「戦前の日本」とは、役人も軍人も、そして勿論ビジネスマンも海外を経験し、外の世界に大いに目を向けていた国だったのではないかと、私は思っている。

 都合の悪い箇所を墨で塗りつぶした終戦直後の教科書のように、「戦前の日本」は頭から否定をされ続けてきたが、そうした先入観にとらわれることなく、時代の枠組みの中で先人たちが懸命に格闘してきたことに、私たちは虚心坦懐に学んでいきたいと思う。

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