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半日の夏休み [歴史]

 横須賀線の電車が大船駅を離れ、住宅の建ち並ぶ中を左カーブで進んで行くと、その先の車窓には森の緑が急速に広がり始める。円覚寺の境内と肩を触れ合うような北鎌倉駅のホームを過ぎ、行く手に緑の山が迫ってくると、列車はトンネルへと吸い込まれる。程なく眩しい光が甦り、右手には扇谷(おうぎがやつ)の深い緑が青空によく映えている。そして、間もなく鎌倉駅である。

 今日は金曜日。私はスポット的に一日だけ会社から休みを貰った。家内と二人で平日の鎌倉を訪れるのも、三年ぶりのことだ。

 今年の夏は一家四人のスケジュールが揃わず、家内には夏休みらしいことを何もさせてやれていない。家族が揃う形でなければ、どこかへ旅をしたいとも家内は言い出さないし、普段は毎日のようにスポーツ・ジムに通っていて、そこでの友達も多いようだから、私もつい気楽に過ごしていたのだが、気がつけば八月も、もう終わりに近い。そんな訳で今日は半日、家内の好きな鎌倉へ連れ出すことにしたのである。気がかりだった天気は東京よりも遥かに良く、夏の青空がまだしっかりと存在感を見せている。

 家内と私が乗り込んだ午前10時半発の金沢八景行きのバスは、駅前から若宮大路に入ると、鶴岡八幡宮の正面を右折して、またすぐ左へ折れる道を進む。この街に幕府が開かれた時代、相模湾側には良港がなかったために、東京湾に面した六浦(むつら)が、鎌倉にとっては重要な港だった。今バスが走っている、鎌倉から朝比奈の切通しを越えて六浦へと至る「六浦道」は、その当時から枢要な道で、『関東御成敗式目』の制定で知られる北条泰時がその整備に努めたそうである。

 10分あまりで浄明寺バス停に到着。このあたりの地名は浄寺だが、私たちが目指しているのは浄寺だ。足利義満の時代の1386年以来、「鎌倉五山」の第五位とされてきた寺である。バス停の先の路地を左へ入ると、その浄妙寺の端正な山門が行く手に見えている。家内も私も初めて訪れる寺だ。背後の山の緑に夏の青空と入道雲。東京からちょっと遠出をしてきたという実感が湧いてくる。
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 山門をくぐり、いかにも禅寺の簡素ですっきりとした境内を進むと、正面に方丈が建っている。まずはお参りを済ませようと賽銭箱に目をやると、そこには「丸に二ッ引き」の家紋が。言うまでもなく、足利氏の家紋である。
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(浄妙寺の方丈)

 「足利氏は、源義家の子義国から出た。義国は義家から下野国(栃木県)の足利の地を譲られ、その地名を名字とした。義国の孫、足利義兼は、頼朝の鎌倉幕府開設に協力し、北条時政の娘を妻とし、上総介となるなど足利氏の基礎を固めた。」
(『中世都市鎌倉を歩く』 松尾剛次 著、中公新書)

 その義兼がこの地に極楽寺という寺を建てた。それが後に足利の世になって、尊氏の父・貞氏の法名に因んで「浄妙寺」に名を改めたという。

 「浄妙寺(もと極楽寺)は、持仏堂が発展したものと推測される。さらに、極楽寺という名前から、もとは念仏系の寺であったとすれば、屋敷の西側に作られたと推測されるので、浄妙寺の東隣に、足利貞氏邸があった、と推測される。」
(前掲書)

 貞氏は義兼の6代目の子孫だから、頼朝の幕府開設以来、代々の足利氏は幕府の要職を務めつつ、この場所に暮らしてきたということだろうか。浄妙寺の方丈の奥には山に向かって墓地があり、貞氏のものとされる墓がある。

 また、室町時代になると東国支配のために鎌倉公方が任命され、尊氏の次男・基氏に始まってその直系の子孫が歴代の鎌倉公方に就任するのだが、前掲書によれば、その鎌倉公方の御所(鎌倉府)も、この浄妙寺の東隣、足利貞氏邸のあった場所に置かれていたのではないかと推測されるそうだ。だとすれば、私たちが今訪れているのは、鎌倉におけるまさに足利氏ゆかりの土地なのである。

 時計を見ると、11時をだいぶ回っている。おっと、いけない。今日は家内のプチ夏休みのつもりで来たのだった。私一人が歴史に思いを馳せている訳にはいかない。枯山水の庭が作られた喜泉庵を眺めながら、境内の奥へと続く道を進む。
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(喜泉庵と枯山水庭園)

 墓地の横の坂道を上がっていくと、やがてレストランの看板が。そこを左へ入ると、緑の中に抱かれたような洋館が現れた。拝観料百円を払って浄妙寺の境内に入らないと辿り着けないという、世にも珍しいイタリアン・レストランである。(寺は17時には閉まるから、ここも夜は営業していない。) あたりはミンミンゼミの大合唱だ。
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 今日は浄妙寺を訪れてここで昼食をとることだけを、家内に提案していた。半日の夏休み。あちこち歩き回るよりも、好きな所でのんびり時を過ごすのもいいではないか。それに、この浄妙寺からバス道を隔てた向かい側は、「竹の寺」として有名な報国寺。鎌倉の中で家内の一番のお気に入りスポットだ。食後はそこで、久しぶりに竹林をわたる風を感じてみようか。

 山の緑に囲まれたこのレストランは、中庭が素敵だ。季節の良い頃なら、テラス席で外の風と日の光を体に感じながら食事を楽しむのが最高だろう。夏空の広がった今日は、そのテラスや中庭をガラス越しに眺めながら、ここまで来るのに既に汗をかいた私たちは、エアコンの効いた室内に席を取ることにした。
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 ここは石窯で焼いた自家製のパンが名物のようだ。せっかくの休日だし、こんなに天気も良いのだからと、私は「鎌倉ビール」、家内はグラスの赤ワインを注文。その軽いアルコールのせいか、窓の外の緑が一段と濃くなったようだ。

 やがて運ばれてきたのは、夏向きの冷たいスープと、三種類のパンのスライス。そしてメイン・ディッシュは家内と私でそれぞれ異なるものを選んだのだが、いずれもロースト・ビーフ、或いは生ハムやソーセージ、チーズなどに生野菜がたっぷりと添えられた、素敵なプレートだった。家内も満足してくれたようで何よりである。
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 食後のコーヒーを楽しんだ後、私たちは中庭に出て、花と緑に触れてみる。真昼の太陽は空高く、とたんに汗が出るが、緑の中にいるのは、やはり気分のいいものだ。それにしても、周囲の森で大合唱を続けているミンミンゼミたちは、あんなに元気一杯鳴き続けて声が枯れたりしないのだろうか。
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 レストランを出て、坂道をのんびりと下る。浄妙寺の山門を出てバス通りを渡り、向かい側の路地を南方向に少し登っていくと、もうそこは「竹の寺」・報国寺の山門だ。北条の世が潰えて元号が建武に改められた年に建てられた禅寺だという。それから凡そ百年後、初代の鎌倉公方・基氏から数えて四代目にあたる持氏が京都の将軍・義教と対立し、永享の乱(1438~9)を起こしたが敗れ、この北方にある永安寺で自刃。それを受けて持氏の子・義久が齢14にして自害したのが、この報国寺だそうである。

 「歴代の鎌倉公方は、足利基氏を除いて、長ずるに及んで室町将軍位を狙い、将軍と対立するに至った。その背景には、足利氏嫡流につらなるという貴種性と、鎌倉府が幕府から広範な自治権を認められ、例えば知行宛行(ちぎょうあてがい)権(所領を与えたりする権利)などを梃子に武士たちを把握できたことなどによる。ようするに、鎌倉府が、いわば東国の小幕府であったことによる。」
(前掲書)

 永享の乱を起こした足利持氏の遺児・成氏(しげうじ)は、再び将軍家に反抗して乱を起こし、拠点を鎌倉から古河に移して勢力を張る。以後鎌倉は関東管領・上杉家が支配する街となり、利根川・渡良瀬川を境にして関東が南北の二つに割れた。それは、京都を二分した応仁・文明の乱よりも10年以上早かった。戦国時代が始まる百余年前の、関東の歴史が熟れていく興味深い時代。その間も、鎌倉は関東の枢要な街として生き続けてきたのだ。

 私たちが抹茶を楽しみながら眺めている報国寺の静かな竹林は、その当時もこんな佇まいを見せていたのだろうか。柔らかな風が時折、その竹林をわたり、一瞬の涼を運んでくれる。何度訪れてもやはりここが一番好きだと、家内は言う。確かに春夏秋冬、どんな季節でもいい。たまに訪れて、しばし時を忘れてみたい場所である。
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(報国寺の竹林)

 元々予定はしていなかったのだが、報国寺の前の路地を山の方へ更に入っていくと、戦前の昭和に建てられた洋館・旧華頂宮邸があり、庭園が開放されているというので、行ってみることにした。それは、緩やかに登っていく路地が本格的に山の中に入っていく、その一歩手前のところにひっそりと建っていた。

 周囲を深い森に囲まれ、南側に洋式の広い庭園を持つその洋館は、夏の終わりの強い日差しに照りつけられながら、森の静寂の中で凛としている。よく選ばれた土地であったのか、風の通りがよく、この暑さの中でも日蔭に入れば実に快適である。首をぐるっと回しても、洋館の他には森の緑と青い空しか見えない。東京はおろか、鎌倉の街にいることさえも忘れてしまいそうな時空が、そこにはあった。
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(旧華頂宮邸)

 細かな予定を決めずにちょっとした遠出をしてみるのも、たまにはいいものだ。スケジュールに縛られず、ゆっくりと気ままに過ごす旅があってもいい。私たちはそれからバスで八幡宮前に戻り、ここまで来たからには八幡神にお参りをした後、小町通りをのんびりと散策した。家内にとっては、これといった当てもないウィンドー・ショッピングも立派な気分転換の時間なのだ。気の向くままに楽しんでもらおう。そうやってあれこれ眺めているうちに、鎌倉の駅前が近くなった。

 戸塚の駅で、湘南新宿ラインに乗り換える。鎌倉は最後まで一面の青空が続いていたが、このあたりはもうだいぶ雲が多い。横浜では空がいよいよ怪しくなり、鶴見の先で東海道本線と分かれて新川崎を過ぎる頃には、雨が窓ガラスを叩き始めた。そして大崎では雷鳴が轟いている。少しの距離の違いで天候も変わるものだ。汗をいっぱいかいたとはいえ、家内との半日を青空の下で過ごせたのは何とも幸運であったと言うべきだろう。

 午後4時少し前に池袋に到着。家内は4時半から一つ用事があり、私は6時から昔の職場の親しい人たちと会食の予定があるので、ここからはそれぞれのスケジュールということにしていた。

 家内と過ごした半日の夏休み。このパターンは他の季節にも応用できそうである。


【追記】
 前掲書は、源氏の時代から上杉氏の時代までの鎌倉の姿を、よく整理した上で詳細に描いた、しかも大変わかりやすい本である。一読を薦めていただいたM先輩には、この場を借りて御礼を申し上げたい。
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