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雨のあとに [自分史]


 金曜日の夜から、天気が崩れた。

 降りだした雨はときに強くなり、夜通し風がうなった。街中に甘い香りを漂わせ、一年に一度だけ輝くような存在感を見せていた金木犀の花は、その雨風に打たれ、夜の間に一斉に散った。巡り来る次の季節に主役を明け渡すために、金木犀の散り方はいつもこうだ。そしてその後は再び、いつもの寡黙な木に戻る。

 週中に、父が他界した。まるで自分の季節を終えた金木犀の花のように、そんなに急ぐことはなかったのにと思うほど、あっという間に逝ってしまった。不慮の出来事だった。


 家族の前では寡黙で、生き方が不器用な父だった。

 郷里を離れて旧制高校に進んだ頃から、実家とは殆ど疎遠な関係だったという。帝大に進むと、学徒出陣が待っていた。海軍の末端を担ったが、終戦も近い頃に、乗っていた船が魚雷を受けて海に投げ出され、木片につかまって二日ほど海上を漂うようなことも経験している。

 戦後は復学するも、学制改革のあおりを受けて、心太(ところてん)を押し出すように大学を卒業させられ、物資の欠乏の中での就職はといえば、とにかく米の飯が食える会社を選ぶしかなかった。そして、それからは仕事一筋の人生。父の生涯は、大正生まれの日本人が背負った運命の、一つの例だった。

 そういう人生の中で、母と出会ったことは、父にとって大きな喜びであったに違いない。だが、暖かい家庭生活に飢えていた筈なのに、そして家族には限りない愛情を持っていたのに、子供の時分の私から見ても、その愛情の持っていき方が、何ともシャイで不器用だった。

 家庭を持つ以前に、何があっても一人で耐え忍ぶしかない人生を送ってきたからか、寡黙な父は何も相談せずに自分一人で決めてしまうことが多く、母はよく困惑していたものだった。そして、その判断の多くは結果的に失敗だった。それを母がこぼすたびに、父は益々家の中では寡黙になった。

 まともな青春時代を国家に奪われたような人生の中で、父は趣味を持つことがなかった。会社では営業一筋で、全盛期は接待ゴルフや宴席に明け暮れる日々。交友関係も当時は広かったようだが、それらはあくまでも会社の肩書きを持った上でのことだ。75歳で会社役員をリタイアしてからは、外の付き合いも少なくなり、父は完全に時間をもて余してしまった。

 それでも、身体が動くうちはまだよかったが、足腰が弱って歩くのもおっくうになりだすと、家に籠りきりになってしまう。しかも、無趣味だ。そのことが、父の老いを確実に早めていった。子供の頃に戻ったように、自分の身の周りの全てを母に頼りきって、父は我儘が強くなる。気の毒だったのは、歳とともにそうなっていく自分自身を、父は一方で自覚していたことだ。わかってはいるが、どうすることもできない。そのことが結果的に、父に人生の結末を急がせてしまったのかもしれない。


 私が社会人になって何年か経った或る日、会社帰りに、まだ現役だった父と二人で飲みに行くことがあった。駆け出しの頃は毎日夜遅くまで仕事があったし、私には転勤もあったから、父と外で飲んだのはそれが殆ど唯一の機会のようなものだった。二人で食事をした後、父の行きつけの銀座のバーに寄った。

 飲むほどに硬い話をする。それが父の酒だった。だが、決して説教ではなかった。飲んで上機嫌になった父は、普段は決して語ろうとしない、戦争時代の体験を珍しく口に出した。昭和20年になって日本各地が大空襲を受け、海軍の船がことごとく沈められていた頃の話だ。

 「今日はまだ生きているが、明日はもう死ぬかもしれない。そんな環境に置かれたら、『どうせ死ぬんだから今何をやってもいいじゃないか。』という考え方になるかもしれない。事実、そういう奴も周りにはいた。けれども、明日死ぬかもしれないからこそ、人間は最後まで礼節を守らなければいけないんだと、俺はその時にそう思った・・・。」

 話の前後関係は、もちろん覚えていない。だが、父がふとそんな話をしたことが、私の脳裏に残った。仕事一筋で、帰ってきた時はいつも半分酔っていて、母のぼやきが絶えなかった父だったが、灰の中にあってもなお熱を絶やさない炭火のように、この人の本質は、どんな運命に弄ばれようとも、愚直なまでに自分を変えないことにあったのだ。それが強みでもあり、限りなく不器用なところでもあった。

 あの時二人で飲みに行って、父がふとそんな話をした、そのことを思い出した時、初めて涙がこぼれた。


 いつかは起きることだと覚悟はしていたが、これで実家の母がとうとう一人になってしまった。

 母は長女タイプの性格で、周りから情けをかけられることを潔しとしないから、今は気丈にしているし、私たちがあまり気にかけることは嫌がるだろう。そこは適度に距離を置いて行かねばならないが、明日で80になるというのに、何の介護も必要とせず、特に父がリタイアしてからの12年間は、一心にその面倒を見てくれた。それだけに、これからは母に余生を大いに楽しんで欲しいものだ。そしてそのために、私がしっかりしなければいけないのだと思う。

 密葬が始まる少し前までは雨模様だったのに、父を送る順番が来た頃には薄日が射し始め、今日の日曜日はみるみる青空が広がった。それは、極めつけの雨男だった父から、これまた極めつけの晴れ女の母へと、天候までもが二人の間でバトンタッチされたかのようだ。

 これからも、家族は一つ。母を交えて、楽しいことをたくさんして行こう。

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