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続・マイノリティーの矜持 [自分史]

 音声だけの情報というものは、時に映像よりも雄弁に物事を語ることがある。目に見えるものがない分だけ、聞こえてくるものからその場の情景が自分の中で自由に膨らんでいくからだ。昔で言えば、プロ野球のラジオ中継は、テレビとは違う独特の興奮が伝わってくるものだった。

 1973(昭和48)年7月11日の夜。当時高校二年生だった私は、小さなトランジスタ・ラジオから雑音混じりに聞こえてくるナイターの試合展開に一喜一憂していた。神宮球場で行われていたロッテ・オリオンズ対日拓ホーム・フライヤーズの試合。その結果次第で、パ・リーグの前期優勝が決まるからだった。

 リーグを宣伝する強力なメディアを持たず、年間の観客動員数がセ・リーグの4割水準という不人気に喘いでいた当時のパ・リーグは、この年から二シーズン制を導入。’67年から’72年までの直近6年間に5回優勝という圧倒的な強さを見せた阪急ブレーブス以外にも優勝の可能性を、という目論見がともかくも当たって、二シーズン制初年のこの年の前期は、南海ホークスとロッテ・オリオンズが首位争いを演じることになった。だが、首位ホークスは自力優勝ができず、二位オリオンズに1.5ゲーム差をつけて前期の日程を終了。残る対フライヤーズ三連戦にオリオンズが全勝すれば逆転優勝になる計算だった。記憶が正しければ、私がラジオにかじりついていた7月11日は、その三連戦の第二戦だったのである。

 (因みに、フライヤーズは現在の日本ハム・ファイターズの前身で、この時点では本拠地が後楽園に落ち着いていた。一方のオリオンズは言うまでもなく現在の千葉ロッテ・マリーンズの前身だが、南千住にあった本拠地の東京スタジアムが大映の倒産で使えなくなり、この年から主催ゲームすら各地を転々とする「ジプシー・ロッテ」と呼ばれる状態になっていた。よく覚えていないが、この夜の神宮での対戦はオリオンズの主催だったのだろうか。)

 ラジオから聞こえてくるのは、閑古鳥の鳴いていた当時のパ・リーグの試合とも思えない大歓声。しかもその大半はオリオンズへの声援だ。監督の「カネやん」こと金田正一は国鉄と巨人にいたから東京では人気者で、こういう試合を盛り上げることが得意だった。それに引き換え、かつての本拠地だった神宮が全くのアウェイになったような中でプレーをすることになったフライヤーズの選手たちは、何とも気の毒だった。

 結局、その試合をオリオンズは落とした。その瞬間、ホークスの前期優勝が決まる。私はラジオの前で拳を掲げ、ガッツポーズを繰り返した。大阪で道頓堀に飛び込んだ人がいたかどうかは知らない。
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(当時の野村克也監督 - ホークスのHPより拝借)

 私が大阪で小学校に上がった1963(昭和38)年の夏のある日、父が会社帰りにプロ野球の試合に私を連れて行ってくれた。それは、私が級友たちと草野球を始めるような年頃になったから、プロ野球の一つでも見せてやるか、という親心だった。それも、甲子園は試合がなかったのか、或いは父のオフィスから近い球場を選んだのか、連れて行ってくれたのは難波の大阪球場で行われた南海ホークス対阪急ブレーブスの対戦だった。

 当時のパ・リーグはホークスと西鉄ライオンズの二強時代。ホークス:皆川睦雄、ブレーブス:石井茂雄の先発で始まったこの日の試合も4対3でホークスが勝った。野村克也、広瀬淑功、国貞泰汎、小池兼司といった主力選手が活躍。この時以来、阪急の沿線に住みながら、小学生の私はホークスのファンになった。そしてそれは、翌年に父の転勤で東京に戻ってからも、(更には、後述するようにチームが福岡に移転した後も)ずっと続いた。だから、ファン歴もあと2年足らずで半世紀になる。そして、世の中で圧倒的にマイノリティーの存在であるからこそ、パ・リーグの応援を続けてきた。

 そんなホークスだが、‘64年から’66年まで3年連続でリーグ優勝(その内’64年は日本一)を飾った後は、ブレーブスの台頭で優勝から遠ざかることになる。名将・鶴岡一人の時代は既に終わり、チームの全盛期は明らかに過ぎていた。ガチンコ勝負ではブレーブスに勝てない。当時プレイング・マネージャーとしてチームを率いていたノムさんは、後で何と言われようとも、戦略・戦術で勝つしかなかった。

 二シーズン制の始まった’73年のシーズンは、トレードで得た選手を活用しながら、高校二年の私がラジオにかじりついていた夜に、ともかくも前期の逃げ切り優勝を果たすと、後期は事実上の捨石にした。後期の対ブレーブス戦は「死んだフリ」をして13戦で0勝12敗1分。勝負を捨ててブレーブスの戦力を研究し、後期が終わった後のプレーオフに備えた。だから、前期は優勝だが後期は3位。シーズン通算で68勝58敗4分、勝率.540はリーグ第3位だった。

 チーム打率.260はリーグ3位、防御率3.35は同2位。本塁打数113はリーグ最下位、盗塁数103は同4位、そして失策数はワースト3。頭抜けたところが何一つないチームを優勝に導くには、「やりくり算段」と巧妙な作戦が必要だった。後期を捨石にしたのは「二シーズン制の悪用」と言われても仕方がないが、ともかくもそれでブレーブスとのプレーオフを3勝2敗で辛くも征して、ノムさんのホークスは’73年のリーグ優勝を果たした。前回優勝から7年ぶり、そして南海電鉄が親会社の時代の、それが最後の優勝になった。
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(この年の日本シリーズでも好投した江本孟紀 - ホークスのHPより拝借)

 ‘70年代の後半、ホークスが次第に弱小球団化していくのは、私にとっては浪人時代、そして大学時代になるのだが、日本ハム・ファイターズとの対戦でホークスが後楽園に来るたびに、私はデーゲームを観戦したものだった。ファイターズも弱かった頃で、球場に行ってみると、閑散とした中にも三塁側の観客の方が多いぐらいだった。かつての名門球団のネーム・バリューは辛うじて残っていたということだろうか。

 その名門ホークスが売却され、福岡に本拠地を移すことが発表されたのは、それからだいぶ経った’88年の9月。社会人8年目で当時ロンドンに住んでいた私は、日本からの一日遅れのニュースで、それを知った。


 昨日(11月5日)、パ・リーグのクライマックス・シリーズ第二ステージで、ホークスが西武ライオンズを制して8年ぶりの日本シリーズ進出を決めた。

 どの新聞を見ても、「7度目の正直」と書かれている。リーグ戦終了後のプレーオフ的な制度が’04年に始まって以来、6回挑戦していずれも敗退していたからだった。例えてみれば、42.195kmのマラソンを終えた後に、上位3者だけで更に400mのトラック一周を競わせてチャンピオンを決めるようなクライマックス・シリーズの存在は、私にはいまだに釈然としないが、日本人的な生真面目さというべきか、そういう制度の下でも各試合で選手たちによる力と力の真剣勝負が繰り広げられたことは、おおいに賞賛したい。特に昨日のホークス対ライオンズの第三戦、ホークス:杉内俊哉・ライオンズ:涌井秀章の両エースが共に10イニング目まで127球を投げ、共に1点ずつを失って涙した、あの息詰まる試合は球史に残る名勝負だった。

 テレビのBS放送で全試合が中継され、ヤフー・ドームに連日37,000人を超える観衆を集めての熱い試合。ホークスは、130試合のリーグ戦(内24試合はセ・リーグとの交流戦)では2位ファイターズに17.5ゲーム差をつけ、対戦した(セ・リーグを含む)全11球団に勝ち越した「ぶっちぎり優勝」。そしてクライマックス・シリーズではライオンズに無傷の三連勝・・・。
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 ドーム球場になる前の後楽園にホークスが来るたびに、優勝とは無縁の閑散としたデーゲームを何度も見てきた私にとっては、ホークスがここまで九州の地に根付き、ここまで強くなり、そしてここまで全国ブランドになったことには隔世の感があり、歓喜の輪の中にいる今のホークスの姿は眩しいばかりだが、長年パ・リーグを見てきた人間というのは、どこか素直でない部分があるものだ。

 球場は閑散としていても、フィールドの中はいつも力と力の真剣勝負。それが昔からパ・リーグの魅力だった。時代の変遷と共に、プロ野球を巡る環境は厳しさを増しているが、そんなパ・リーグの野球の原点を失わずに、新たな時代を切り開いていって欲しいものである。

 少なくとも私は、自分が生きている限り、パ・リーグのサポーターでありたい。

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