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山を貫いた日 [鉄道]


 駅のホームから海が見える。東京への通勤圏でそんな駅も珍しいだろう。

 JR東海道本線の国府津は、北の小高い丘と南の相模湾に挟まれた、のんびりとした駅である。もともと温暖な土地柄に加えて、御殿場線というローカル色の濃い路線との乗換駅になっていることも、そうしたのんびり感を一層醸し出しているのかもしれない。西側には箱根の山々が並び、駅前の一角からは富士山も見える。
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(二宮の吾妻山から眺めた小田原方面。中景右の丘と左の海に挟まれたあたりが国府津。遠景は箱根の山々)

 母の実家が国府津にあって、子供の頃の私は夏などにずいぶんと長くそこに逗留したものだった。祖父に手を引かれて、その国府津駅の機関庫を見に行ったのは、私が幾つの頃だったのだろう。

 今でこそ駅の北側には線路の近くまで住宅が建ち並んでいるが、当時はそこに扇形のクラシックな機関庫があって、蒸気機関車がターンテーブルに乗って方向をかえたりしていた。幼い頃から汽車が大好きだった私の相手をするために、祖父はその機関庫を見せに連れて行ってくれたのである。昭和の30年代というと、御殿場線にはまだディーゼルカーすらなく、D52形という本来は貨車牽引用に作られた蒸気機関車が、昔ながらの客車を引いていたのだった。

 日本の鉄道史の中でも、国府津は古い駅である。開業は明治20年7月。要するに、明治5年に新橋・横浜間で開業した日本初の鉄道が延伸して次に開業したのが、横浜・国府津間だったのだ。そしてその2年後には国府津から御殿場を経て沼津に至る、現在の御殿場線のルートが完成する。

 ところが、このルートの箱根越えは、御殿場まで標高差450mを登らねばならず、全長60kmの内の1/3が25‰の急勾配という山岳路線。例えば下りの優等列車は、国府津で食堂車を切り離し、列車を後押しする蒸気機関車を連結して出発し、沼津に着いたら後押し機関車を切り離し、そして別の食堂車を連結して西へと向かわねばならなかったという。地形が険しいので大雨にも弱い路線だったようだ。
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 国府津にあった扇形の機関庫はそうした機関車のための設備で、聞くところでは、鉄道施設としては日本初の鉄筋コンクリート製の建物なのだそうである。(老朽化が激しく、保存ができなかったのは残念なことだ。)

 大宮の鉄道博物館へ行くと、日本では見慣れない特異な形をした9850形という蒸気機関車の実物が展示されている。明治45年に輸入されたもので、マレー式と呼ばれる、シリンダーと動輪からなる駆動装置を前後に二組持った、胴長で出力の大きい機関車である。これが御殿場への“山登り”に投入されたのだが、期待されたパワーはともかく、駆動装置の構造が複雑でメンテが大変だったようだ。次第に国産の機関車に代替されて、昭和8年までに姿を消したという。
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(9850形蒸気機関車。鉄道博物館のHPより拝借。)

 一方で、東海道本線の東京・国府津間は大正14年までに電化が完成していた。日本の幹線鉄道としては、もちろん電化の一番乗りである。しかし、そこから先の電化の対象は御殿場ルートではなかった。輸送力増強のために、国府津から熱海ルートを建設し、伊豆・箱根の山をトンネルで抜けるという構想が明治42年には出されていたからだった。言うまでもなく、丹那トンネルの建設である。

 熱海と函南を結ぶ全長7.8kmの丹那トンネル。無論、ここまでの長大トンネルは国内に例がなかった。(当時は全長4.7km、単線規格で明治36年開通の中央本線・笹子トンネルが最長) ここまでの長大トンネルともなると、蒸気機関車の煙を排出できないから電化が前提になるが、トンネル経由のルートによって国府津・沼津間は12kmほど短縮でき、急勾配がなく機関車の付け替えもしないから、スピードアップが図れる。

 日本最長で複線規格、しかも電化が前提という、過去に例を見ない鉄道トンネルの建設構想を固めた当時の鉄道院総裁は、後藤新平。明治・大正期に計画された国家の基幹インフラの建設に必ずと言っていいほど彼の名前が出て来るのは、本当に凄いことだ。
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 丹那トンネルの着工は大正7年3月21日。計画では7年後に完成するはずだった。ところが、蓋を開けてみると、断層地帯を横切ることでトンネルの崩落が起きた他、大量の湧き水、掘削後に空気に触れることによる粘土の膨張などに悩まされ続けたうえに、北伊豆地震や関東大震災にも遭うという、まさにご難続きの工事となった。今とは違って、地質の調査が十分でないまま工事を始めた点は否めない。

 特に湧き水の問題は深刻で、その対策として「水抜き坑」を別に掘るという工法が編み出されることになるのだが、そのためにトンネルの真上にある丹那盆地では地下水が激減し、灌漑用水が枯れて農業ができなくなる事態が発生。地域住民の激しい抗議行動に発展し、鉄道省は対応に苦慮することになる。

 そうした数々の苦難を一つずつ乗り越えていかざるを得なかったために、工期は大幅に伸びて16年にわたり、総工費は当初予算の3.4倍に膨れ上がったが、昭和8年6月にトンネルは貫通。内装工事が行なわれて翌9年3月10日に鉄道省がトンネル工事の完成を発表。レールの敷設と電化工事がそれに続いた。
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(開通直前の丹那トンネル 熱海口。JR東日本のHPより拝借。)

 そして、その年の11月30日午後10時。EF53形電気機関車に牽引された15両編成の神戸行き急行列車が、東京駅のホームを離れる。夜行だから停車駅は少ない。大船に停まった後、次の停車駅は沼津だった。つまり、東海道本線史上でこの時初めて、国府津に停まらない列車が登場したことになるのだろう。

 列車は予定通り、日付がかわる午前零時きっかりに熱海駅を通過し、零時4分に丹那トンネルの熱海口に進入。歓喜の声を乗せて高速で走り続け、三島口を出たのは零時13分2秒であったという。昭和9年12月1日。丹那トンネルの運用開始は、77年前のちょうど今頃のことになる。

 「関東」という言葉が、或る一線を以って日本の地域・風土を明確に区切るニュアンスを今でも持つように、伊豆・箱根の山を越えるのは、古来日本人にとって難儀なことであった。源平の合戦や戦国時代、更には戊辰戦争の頃だって、この山々が自然の要害であり続けてきたし、今だって東名高速道路はJR御殿場線と同じようなルートで箱根の北を大きく迂回している。そして、伊豆半島の背骨を一気に横切るような道路トンネルはいまだに存在しない。そう思うと、戦前に行われた丹那トンネルの建設は日本史上でも極めて画期的なことだったと言えるだろう。

 鉄道旅客の輸送は東海道新幹線に主役を譲って久しいものの、JR貨物の長大コンテナ列車はこの丹那トンネルを毎日通る訳だから、先人が伊豆・箱根の山々に挑み、77年前に開かれたこの交通インフラは、今もなお働き続け、日本経済にとっては欠くことのできないものだ。年に一度ぐらい、そのことを思う日があってもいいのかもしれない。

 なお、吉村 昭の小説『闇を裂く道』(文春文庫)は、この丹那トンネルの建設の一部始終を克明に描いた力作である。
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 このブログを始めてから、今日で満二年となった。この間にアップした記事がちょうど200件。つまり年に100件だから、平均すれば週二に若干及ばない程度のものである。お世辞にもマメとは言えないが、ともかくもその間におよそ61,000件のアクセスをいただくことになった。目を通していただいた方々には、この場を借りて心から御礼を申し上げたい。

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