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江戸のスタンプ・ラリー [季節]

 年が明けた。

 東京は大晦日まで、よく晴れているが風の冷たい、いかにも関東の冬と言うべき天候が続いていたが、元日の朝からは晴れ間もあるものの曇り空が優勢となり、そのかわりに風が弱い、比較的穏やかな新年の幕開けとなった。

 喪中であったために、我家は例年に比べれば静かに三が日を過ごすことになった。家内の親類との新年会も今年はなしだが、だからといって閉じこもってばかりいた訳ではなかった。むしろ、敢えて例年通りに行動しようと思っていたことはしたつもりだ。

 日本を離れて海外で暮らしたことのある人は、国内にいた時よりも強く「日本」を意識するようになることが多いといわれる。私もその例外ではなく、長く住むことなった香港での生活を終えて帰任し、その年が暮れて8年ぶりに日本の正月を迎えた時には、何とも言いようのない感慨にとらわれたものだった。それが2004年の正月だったから、その時に始めて以来今年で9回目になる、家内と私にとっては今や新春の恒例になったもの、それが谷中(やなか)の七福神巡りである。
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(不忍池の弁天堂)

 自宅の近くから都バスで上野広小路へ出て、そこから上野の不忍池へ向かうと、すっかり冬景色になった池の真ん中の弁天堂に行列が出来ている。そこが七福神巡りの起点で、以後順番に護国院(大黒天)、長安寺(寿老人)、天王寺(毘沙門天)、修性院(布袋尊)、青雲寺(恵比寿)、東覚寺(福禄寿)を訪ね、最後はJRの田端駅に出るというコースだ。ゆっくり歩いても2時間程度だから、4kmほどの道程なのだろう。

 賽銭を投げて不忍池の弁天様にお参りをした後、ここで七福神が車座になって勢揃いした絵が印刷された一枚の和紙を買い求める。そして、この先に訪れる寺院でそれぞれ200円を払うと、紙の上の該当する神様の絵の上に御朱印を押してくれる。七つの寺院を全て巡り、全ての御朱印が揃えば完成という訳だ。スタンプ・ラリーの元祖といってもいいのかもしれない。
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 「七福神をのせた宝船の図柄は、江戸期に──たぶん、江戸の町方で──できあがった。
 そもそも神々が乗っている船が江戸期の型なのである。千石船が大きな一枚帆をあげ、風を真艫(まとも、船尾)にうけて見る側に進んでくる。
 めでたくもあり、泥臭くもあり、いかがわしくもある。
 が、はちきれるような愛嬌がある。
 (中略) 社寺に合祀されている福神を組みあわせて七福神のセットにして参詣人をさそうというのは、元来、江戸が本場である。」
 (『この国のかたち 三』 司馬遼太郎 著、文藝春秋 より 「七福神」)

 福徳の神様を祀って現世利益を願う、いわゆる福神信仰が日本で始まったのは、室町時代の頃からだそうである。対明貿易が盛んになり、後には倭寇が「活躍」することで、日本が華中・華南の道教的世界に触れるようになった時代。布袋(ほてい)、福禄寿、寿老人の三神はいかにも道教然とした神様だが、それらが次第に日本でも祀られるようになったということだろうか。(もっとも、布袋様は寧波に住んでいた実在の仏僧で、死後になってから、あれは弥勒菩薩の化身だったということになったらしい。)
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(修性院の布袋さま)

 一方で、インドのヒンドゥー教の神様が由来の福神が、弁才天、毘沙門天、大黒天の三神である。このうちの大黒天は、大国天とも書くように日本古来の神様である大国主命(おおくにぬしのみこと)と習合してしまい、インドでは左肩に袋を担ぐだけの姿だったのが、日本では右手に小槌を持ち、米俵の上に乗っかって、食物や福徳を司る神様になった。

 そして、七福神の中で唯一のジャパン・オリジナルが(本人が日本人であるかどうかは別として)、恵比寿様だ。古くから各地の漁民の間で信仰があり、大漁や航海の安全をお願いするための神様であったようだ。右肩に釣竿を乗せ、釣り上げた鯛を左手に抱え、七人の神様の中では唯一働く姿をしている。そのあたりもまた、いかにも日本の神様である。(もっとも、こうしたそれぞれに由来の異なる神様が何の違和感もなく仏教の寺院に合祀され、信仰を集めてきたこと自体が、何とも日本的な宗教のあり方なのだが。)

 ついでながら、カレーライスのお供にされる福神漬けという漬物。あれがなぜ「福神」なのかというと、大根や茄子、蓮根など、七種類の野菜を材料にしているからその名がついたそうである。
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(青雲寺の恵比寿神はなかなか立派なお姿だ)

 上野と本郷という二つの台地に挟まれた谷間にあたることからそう名付けられた谷中。徳川の世になり、江戸の鬼門(北東の方角)を守るために上野に寛永寺が建てられると、隣接する谷中にはその子院が幾つも建てられたという。そこへ、明暦の大火(1657年)によって焼失した寺がこの地に次々と移転。江戸でも有数の寺町を形成することになる。

 七福神をセットにした参詣が庶民の間で始まるのは、それから凡そ一世紀後ということになろうか。谷中の七福神巡りはそれ以来約250年の歴史を持つ、江戸最古のものだそうである。上野に近いこのあたりは、幕末に官軍と彰義隊の間で戦闘が行われ(いわゆる上野戦争)、砲撃で多くの寺が消失したようだが、20世紀の戦争を経た今もなお江戸の面影を残す面白い町だ。

 いつもの順番でいつもの寺を訪れて、そこに祀られている神様に手を合わせ、頭を下げる。新年に向けて幾つかの誓いと、お願い事と。十円玉一枚にあまり多くを託すわけにもいかないが、こうしていつものような正月を今年も迎えられたのは、ともかくもありがたいことである。(家内のお願い事の方が長いのも毎年のことだが。)

 来る年が良い年になりますように・・・。初詣の時に私たちは、そんな風にお祈りをすることが多い。この場合、良い年に「なる」という動詞は自動詞だから、主語は「来る年」だ。それはこれからの一年という時間そのものだが、同時に「人々の活動の総体としての一年」であるのかもしれない。だが、いずれにしても漠然とした主語である。

 元日の朝刊を広げるまでもなく、新年の我国は積年の課題が山積みで、文字通りの「待ったなし」である。もういい加減私たちは、年頭に神様に向かって唱えることの主語を「私たち自身」に、そして動詞を自動詞から他動詞に置き換え、「来る年」を目的語にしていく必要があるのではないか。受身の姿勢で「良い年」を待つのではなく、求められているのは私たち一人一人の自覚と具体的なアクションなのではないだろうか。江戸時代とは違って、政治は「お上」ではないのだから。

 いつもと変わらぬ正月の谷中を歩き、七福神へのご挨拶を済ませた後、商店街の酒屋でいただいたコップ一杯の樽酒が、爽やかに苦かった。

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