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雪の鹿児島 [歴史]


 2月の第三週は、週初から日本の南岸に前線が停滞した。東京でも折畳み傘を持っての通勤が三日続き、来る日も来る日も西高東低の冬型の天気だった一頃とは、明らかに気候が変わりつつあるようだ。次の日曜日は、暦の上では「雨水」。日々繰り返される小刻みな寒暖の中にも、かすかな春の兆しを見つけたくなる季節である。
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 ちょうど135年前の今頃にあたる、1877(明治10)年2月15日。その日の鹿児島は60年ぶりの大雪に見舞われていたそうである。その降りしきる雪の中を、維新の英雄・西郷隆盛を頭目に担ぎ上げた1万2千の薩軍が、熊本方面へと進軍を開始した。後の二・二六事件など軍隊内部でのクーデターを除けば日本史上最後の内乱となった、西南戦争が始まった日として記憶される日である。

 世には旧氏族の憤懣が渦巻いていたといわれる。前年の3月に廃刀令(帯刀禁止令)が出され、8月には太政官布告で禄制が全面廃止になって、士族には金禄公債が渡されることになった。要は金禄公債という「退職金」を見返りにサムライは全員失業し、以後は帯刀もまかりならぬというわけだ。これらに憤激した旧士族らによって、10月には西日本で騒乱が相次いで起こされた。

 神風連の乱、秋月の乱、萩の乱・・・。いずれもすぐに鎮圧されたのだが、日本最大の士族集団を抱える薩摩がどう動くか、そのことに世間の注目が集まっていた。明治6年の調査によれば、武士階級は家族も含めて全国で189万2千人、48万8千世帯で、人口の7%ほどを占めていたという。とりわけその比率が高いのが薩摩だった。

 そこへ、明けて1月、薩摩の私学校の生徒が陸軍省の火薬庫を襲って武器弾薬を奪うという事件が発生。加えて、警視庁から薩摩への帰郷組による「西郷暗殺計画」が発覚。薩軍と政府軍との衝突はもはや避けられない情勢となった。2月15日に飛び込んできた「西郷立つ」の報せは全国の不平士族を奮い立たせ、そして明治新政府を大いに震撼させたことだろう。(私の父方の祖先はこの後の熊本城攻防戦に官軍の一兵卒として加わっていたそうだから、個人的にも係わりのあることではある。)
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(「鹿児島暴徒出陣図」-鹿児島県立図書館HPより拝借)

 よく知られているように、戊辰の戦(いくさ)が終わった後の西郷は、ごく限られた期間しか新政府に参画していない。引きこもるようにして薩摩にいたのだが、再三の出仕要請を受けて政治改革のために上京したのは、明治も4年になってからのことだ。

 当時、新政府の喫緊の課題は、封建を打破し郡県の治を布くという廃藩置県だった。これはやらねばならない。だが、長らく続いた大小諸藩をなくすとあれば、士族の強い反発は目に見えている。大久保も木戸も、それをひどく案じていた。政策の重要性とそれに伴う大きなリスクを長州出身の山縣有朋が訥々と説明すると、

 「西郷は、ひとこと答えただけです。
 『わたしンほ(私のほう)は、よろしゅごわす(よろしい)』
 私のほうというのは、薩摩藩のことです。薩摩藩としては異存がない、ということですが、とんでもないことで、久光とその配下の者がいて、大反対している。しかし西郷はいっさい余分なことはいわない。西郷の脳裏には久光の顔がいっぱいにあったでしょう。西郷はそれを押し殺したはずです。同時に死を決したはずです。その死も、死骸を八つ裂きにされるような死を思ったかもしれません。
 山縣にすれば、拍子ぬけしました。西郷の返答がそれだけだったからです。ひょっとすると、なにか西郷がまちがっているのではないかと思い、
 『この問題は、血を見ねばおさまらぬ問題です。われわれとしては、その覚悟はせねばなりますまい。』
というと、西郷はふたたび、
 『わたしンほは、よろしゅごわんが(よろしいですよ)』
といっただけだったといいます。」
 (『「明治」という国家』 司馬遼太郎 著、日本放送出版協会)
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 これで新政府の腹は決まり、薩・長・土の兵力を集めた「御親兵」の武威の下で、7月に廃藩置県を断行。懸念されたような騒乱は何一つ起こらず、日本は粛々と新体制へと移行していったという。それは時の英国公使、あの傲岸不遜なハリー・パークスをして
 「ヨーロッパでこんな大変革をしようとすれば、数年間は戦争をしなければなるまい。日本で、ただ一つ勅諭を発しただけで、二百七十余藩の実権を収めて国家を統一したのは、世界にまだ例をみない大事業であった。」
と言わしめたほどの出来事だった。ともかくも、そのことで弾み車が回りだすようにして、新政府による諸々の近代化が始まることになる。

 廃藩置県の成功を見届けて、岩倉使節団が11月に出帆。彼らが帰国する明治6年9月まで、西郷は留守を預かることになるのだが、その間に新政府が打ち出した数々の重要施策の中でここに取り上げるべきは、陸軍省・海軍省の創設と徴兵制の導入であろう。廃藩置県と合わせて、階級としても軍事力としても今後はサムライを不要とするこれらの制度を導入するにあたり、サムライの代表のような西郷の存在に恃むところ大であったのだ。

 ところがその西郷は、岩倉使節団が帰国するや否や「征韓論」を巡って洋行組と対立し、10月には下野してしまう。西郷が征韓論を主張したのは、そこに自らの死に場所を見つけたからだと言われるが、本当はどうだったのだろう。

 それよりも何よりも、明治10年2月15日に、雪の鹿児島で「大西郷」はなぜ立ったのだろう。

 「西郷が、私学校の幹部たちに自分の決意を告げたことばというのは、
 『そいじゃ、俺の体を上げまっしょう』
 ということだったという。」
 (『翔ぶが如く』 司馬遼太郎 著、文春文庫)

 後世になってもそれぐらいしか語られることがないから、それ以上のことはわからない。前述のように、サムライを不要とする制度の数々は、西郷自身が新政府に参画していた時期に打ち出されたものだ。明治9年の廃刀令はその仕上げのようなものだし、金禄公債の発行はサムライの終焉に関する財政面での実務に過ぎない。それらに今更反対を唱えるのは、西郷の立場ではなかったはずだ。

 むしろ西郷の怒りの矛先は、新政府の役人の腐敗ぶり、私利私欲に走る品のなさにあったと言われる。何しろ、本人は無私・無欲で清貧に生き、「児孫の為に美田を買わず」、「敬天愛人」というような人柄だったからだ。

 「『草創の始めに立ちながら、家屋を飾り、衣服をかざり、美妾を抱え、蓄財を謀りなば、維新の功業は遂げられまじく也』
 『今となりては、戊辰の義戦も、ひとえに私の営みなる姿になり行き、天下に対し、戦死者に対して、面目なきぞと、しきりに涙を催されける』
 やがて重職を蹴って鹿児島に帰った西郷にとっては、どうやら維新とはいまなお未完で、さらなる革命をつづけなければならないもののようであった。
 『万民の上に位する者、己れを慎み、品行を正しくし、驕奢を戒め、節倹に勉め、職事に勤労して人民の標準となり、下民その勤労を気の毒に思うようならでは、政令は行なわれがたし』
という『西郷遺訓』にある言葉を読むと、理想主義者西郷の胸中には、世直しの機会があれば、たえざる『文化革命』の旗を高く掲げて、いつでも打って出るつもりがあったのではないか。」
 (『それからの海舟』 半藤一利 著、ちくま文庫)
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 「西郷立つ」の背景には、こうしたことがあったのかもしれない。だが、仮に薩軍が政府軍を相手に引き分け以上の戦果をあげたとして、西郷の理想によって明治の世はもっとマシなものになっていただろうか。恐らくそうではあるまい。これといった戦略もなく、ただ西郷の人柄に依拠するだけであれば、「世直し大明神」への期待は早晩裏切られていたことだろう。

 結局、西郷さんが今もなお人の心を捉えるのは、自らがサムライの代表でありながら、歴史上の役目を終えていたサムライの存在に引導を渡す改革を躊躇なく毅然と実行し、その結果として生じたサムライの反乱に自ら後始末をつけたこと、そしてその過程では何らの私情を挟まず、自らの生に何の執着も見せなかった、その潔さに対する大きな尊敬があるからではないだろうか。それは、西郷さん以外の誰にも出来なかったことなのだから。

 ある社会階層の既得権を奪い、その存在すら否定するような大改革というのは、言うまでもなく大きな抵抗を伴うものだ。それは、対外債務問題に揺れる現在のギリシャを見てもそうだろう。EUから突きつけられた緊縮政策の受入に反発する市民のデモや騒乱の様子は、テレビやネットの映像ですっかりお馴染みになってしまった。19世紀の西南戦争とはいささか次元の異なる出来事ながら、年金の削減や増税など、経済的な痛みを伴う改革になると、とたんにこのありさまである。
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 西郷さんの時代とは大きく異なるが、積年の閉塞感に満ちた今の世の中にいると、「言うだけ」の改革論者よりも、旧体制の中から現われて旧体制に引導を渡し、潔く後始末をつけてくれる西郷さんタイプの政治家の方がよほど求められているのではないかと、そう思うことがある。

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