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二ヶ月と二日 [自分史]

 3月20日、春分の日。午後の3時少し前から、家の近くの植物園を歩く。

 きれいな青空が一日続く久々の休日。こんな日は自然とアクティブになるもので、今日は朝からクルマを飛ばしてお墓参りなどの用事を既に三つ、効率良くこなしてきた。後は夕方から家内と食事に出るまで、ちょっとした自分一人の時間である。

 東京では、今月に入ってから週末はことごとく悪天候だったから、「休みの日の青空」には私なりに飢餓感があった。春のお彼岸といっても風は冷たく、木々の芽吹きはまだ先のことだが、それでも、光あふれる空の下、草木に囲まれた環境の中を歩くのは何とも気分のいいものだ。

 植物園の奥では、例年よりだいぶ遅い梅の花が、満開の姿を見せている。トサミズキの黄色い花も、小さいながら目に鮮やかだ。長らく続いたモノトーンの冬景色から、彩りのある季節へ。今年ほど春の暖かさが恋しいことはなかった。例年になく厳しい寒さの続いた今年の冬。それは我家にとっては、ただ寒いだけでの冬ではなかった。
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 一人暮らしをしている実家の母が体調の異変を電話で伝えてきたのは、1月中旬の日曜日の朝のことだった。前日から一部その兆候があったのだそうだが、右手に力が入らないという。電話の声は何だか舌のもつれるような話し方だ。医師の診察を受けたいと言う。電話を受けた私は家内とすぐに支度をして、クルマを飛ばした。実家までは45分ほどの距離だ。

 着いてみると、八十歳の母はいつものように自分でドアを開けて私たちを迎えてくれた。だが右腕は、肩と肘は普段と変わりないものの、手首から先が殆ど動かせなくなっていた。その指が少し腫れぼったい感じだ。そして、頭はしっかりしているが、少し話しづらそうだった。顔の右半分に、かすかに緩みがあるようにも見える。

 それでも私たちが到着するまでに、母は健康診断で定期的に掛かっていた病院に自分で電話をして症状を説明し、日曜日でも急患体制のある、同じ区内の脳神経外科病院の紹介を受けたという。そして、そこへ行けば即日入院となるだろうからと、当座必要なものを自分でカバンに詰め始めている。私たちはそれを手伝い、ガスや電気の確認をした後、タクシーを呼んで母に付き添い、脳外科病院へと向かった。

 日曜日の正午前後だから道は空いており、病院には20分足らずで着いた。母の掛かりつけの病院から既に連絡が入っていたので、それなりに早く診察が始まり、レントゲンとCTスキャンで検査。それをもとに当直医師の説明を受ける。お見立てはやはり、軽度の脳梗塞ということだった。急性期は再発の可能性があるから、ともかくも安静にしていなければならない。

 脳神経外科病院だから、母のようなケースだけでなく、交通事故などによる怪我人も急患で運ばれてくる。日曜日だというのに院内は忙しそうで、ベッドが決まり、母が横になることが出来たのは午後3時を過ぎていた。私と家内は一度実家に戻って家の中を整理し、クルマで再び病院へ行くと、妹夫婦が駆けつけて来てくれたところだった。

 今まで病気による入院など殆どしたことがなかった母の入院生活が、そんな風にして始まった。

 翌月曜日からは、私と家内、そして妹が交代で母の病室に顔を出した。(私が結婚して以来、これほど頻繁に母の顔を見たこともない。返す返すも親不孝を続けてきたものだ。) 最初のうちは点滴を続け、各種の検査を行なうことぐらいで、あとは安静にしているしかない。単調な時間が流れていくだけだ。私たちが側にいられる間はともかく、一人で寝ている時は、利き手に麻痺が出てしまったという現実が、母の心に重くのしかかっていたに違いない。

 私たちなどとは違って、自筆の手紙のやり取りを重視する世代。毛筆書きを得意にしていたし、料理が好きで、昨年秋に父が急逝するまでは、一日三食全て手作りの料理を何十年も続けてきた母だった。その右手が、ある日突然思い通りにならなくなってしまったのだ。どんなに心細い思いをしたことだろう。

 そうだ。父が逝った、やはりそのことが母の体に障ったのは、今にして思えば明らかだった。父の四十九日が終わった後も血圧が安定しない様子だったので、私も妹も気がかりだったのだが、そのたびに母は気丈に振る舞い、とりたてて気遣いをしなくていいから、あなたたちは自分の生活を大事にして、という素振りを見せていた。だが、それから年が暮れ、いよいよ寒さの季節がやって来る。一軒家で八十の母の一人暮らし。やはりそれには無理があったのだろうか。本人がそう希望していたとはいえ、一人で置いておくべきではなかったのかもしれない・・・。

 病室で、不慣れな左手に持ったスプーンで食べ物を口に運ぶ母。見舞いの帰り際に、不自由になった母の右手を私が握って「ゆっくり治そうね。」と声をかけると、笑って頷きながらも目に涙をためていた母。その様子を見るたびに、「すまないことをした。」という思いが激しく私を責めた。
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 しばらくすると、母は病院の中を少しは歩き回ってもいいことになった。麻痺が右手とごく僅かながら口の動きにあるぐらいで、歩行や食事には何の問題もなかったのは、本当に不幸中の幸いだった。諸々の数値も安定してくると、母の表情も幾分明るくなって、差し入れた本をせっせと読むようになった。そして、そこから先はリハビリ治療への道筋を考えていくことになる。

 ありがたかったのは、旧友のT君が仕事の合間に母の見舞いに来てくれたことだった。長く医師を務め、やはり脳梗塞を患った父君の介護をしている彼は、その経験を踏まえて、母に素晴らしいプレゼントを用意してくれていた。それは、右手で握る訓練をするための柔らかいボールと、たくさんの折り紙だった。しかも、折り方の教科書のコピーまで付けてくれて。少しずつでも、手先を動かす訓練を続けることが機能回復に繋がるという。取り組むべきことが具体的に目の前に現われたので、母は俄然、目を輝かせるようになった。

 それからというもの、見舞いに行くたびに母は折り紙をしていた。たどたどしくも懸命に折り、左手で目を描き、色鉛筆がないから口紅で頬を塗ったという、節分の「鬼」と「お多福」。家内はそれをお土産にもらって来て、我家の飾り棚に守り神のようにして並べた。それを眺めながら、T君の心遣いが胸に沁みた。

 入院から一ヶ月と二日。二月の中旬に、母は都心に近いリハビリ病院へと転院することになった。かなり早いタイミングでここに入れたのも、T君のサポートがあってのことだ。基本的には安静にしているだけだったそれまでの病院とは異なり、ここでは毎日各種のトレーニングが待っている。それも、普段通りの生活への復帰を目指したものだから、作業もかなり実践的だ。そうなると、母もつい一生懸命になる。そうした数々のトレーニングの甲斐があって、母は右手の機能を少しずつ取り戻し、最後は箸を使ったり鉛筆で字を書いたりが、もちろん100%元通りではないにせよ、一通り自分で出来るようになった。

 リハビリ病院に入ってから、ちょうど一ヶ月。母はようやく退院の日を迎える。それが先週の土曜日だった。結果的には右手の機能がかなりの程度回復したので、母の希望を容れて実家での一人暮らしが再開することになった。本人は、ゆっくりゆっくり昔のペースを取り戻したいようだ。といっても、当分はまだ何かと心配だし、寒さが残るうちはあまり外を出歩かない方がいい。私と家内、そして妹の間で手分けをしながら、なるべく頻繁に様子を見に行くつもりでいる。

 そんな二ヶ月と二日が過ぎてお彼岸を迎え、東京では桜の開花予想日まであと10日。本格的な春の到来まで、本当にあともう少しの我慢だ。ここまで、我家にとっては試練の冬だったが、最初の病院でも、その次のリハビリ病院でも、多くの方々に本当に良くしていただいたし、T君をはじめとして、数多くの仲間から暖かい心遣いをいただいた。そのことには重ねてお礼を申し上げたい。そして、高齢の母に付き添いながら、これから日本が本格的に迎えることになる社会の姿かたちについて、改めて認識することの多い二ヶ月と二日だった。

 植物園の高台では、これも例年よりはだいぶ遅れた寒桜が、満開を少し過ぎていた。
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コメント 1

T君

一応医者のふりをしていますが、医者は見立て違いをしたとしても次の患者にさらに良い治療ができれば、許されることがあるかもしれません。
が、ぶっつけ本番の親の介護は、次が無いし、押しつけがましくなってしまったかなと、反省していました
 自分の親の介護はそろそろ2年になるので、ちょっと先を走っているかもしれませんが、介護もリハビリも「あせらず、あわてず、あきらめず」で、じっくり構えるのがいいかなと

by T君 (2012-04-04 21:54) 

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