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都留郡の東 - 高畑山・倉岳山 [山歩き]

 高尾から乗った電車を上野原で降りると、北側の細長い駅前広場には各方面へ行く路線バスがひしめき合っていた。

 大型連休に入って最初の日曜日。しかも前日からの晴天が今日も続いている。平日は地域の人々の生活路線であるはずのこれらのバスも、今朝は大勢の登山客で満員だ。まことに甲斐は山の国で、色々な山への登山口が路線上に点在しているのである。
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 殆どのバスが上野原駅から北の方を目指すのに対して、我々が乗り込んだバスだけが南を向いて桂川を渡り、山を越えて秋山川沿いの県道を西へと走る。窓の外はどんどん山深い景色になり、よく晴れた朝の明るい光を受けて新緑が輝いている。

 座席が全部埋まり、立ち客が数人いたぐらいで出発したバスだったが、他の登山客が五月雨式に途中で降りて行って、終点の無生野(むしょうの)まで乗ったのは私たち7人のグループだけだった。上野原駅から50分ちょっと。山梨県全体で言えば東の端のようなところだが、近くでリニア新幹線の建設が行われているのが信じられないぐらい、山に囲まれた静かな集落である。
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 話は太平記の時代。1335年というから「建武の新政」の2年後のことだ。後醍醐天皇の第一皇子で、讒言に遭って捕えられ、鎌倉に幽閉されていた護良(もりよし)親王が、戦乱の最中に足利直義の命により殺害される。その先は伝説なのだが、親王の寵愛を受けていた側室の雛鶴(ひなつる)姫は、親王の首級を探し出して密かに鎌倉を離れ、京を目指してこの地までやって来たという。(鎌倉からだとすると、丹沢のあの大きな山塊の東麓を経由してやって来たのだろうか。)

 親王の子を身籠っていた姫はここで産気づくのだが、季節は年の暮れ。降り積もる雪の中で母子共に他界してしまった。その雛鶴姫の無念の思いから、「無情の野」が「無生野」になったという一説があるそうだ。今日の私たちは通らないが、バスを降りた県道を西へもう少し進むと雛鶴神社があり、そしてその先の都留市との境になる峠は雛鶴峠と呼ばれている。

 だが、「無生野」という言葉がイメージさせるものとは正反対に、私たちの目の前に広がっているのは、陽光を受けて輝く鮮やかな新緑とモモやヤマザクラの花。「桃源郷」とはこんな眺めを指すのかとさえ思えるほどだ。雲一つない空。今日は初夏のような陽気になりそうだ。
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 モモの木の下で出発前の記念撮影を済ませ、9時半ちょうどにスタート。県道を西方向に歩き、赤倉岳というバス停を過ぎると間もなく、右に穴路峠への登山道がある。最初は舗装道だが、山道に入ると渓流沿いの登りになり、いつしか杉の森へと入って行く。大型連休の最中だというのに静かなものである。

 黙々と登っていくと、登山道入口から40分ほどで杉の森を抜けた。周囲は落葉樹になり、空が明るくて新緑がきれいだ。それを楽しみながら、10時25分に穴路峠に到着。ここへは山の北側、中央本線の鳥沢駅から歩いて来られるので、そうした登山客が行き交うようになる。
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 穴路峠からは左へ、標高982mの高畑山を目指す。歩き始めるとすぐに天神山という小さなピークがあり、そこに立つと北側の大菩薩の山々が眺められるが、その先は再び落葉樹に囲まれた尾根道を一本調子に登っていく道だ。その途中、ミツバツツジの花が青空によく映えている。
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 最後の登りに一汗かくと、山道の傾斜が緩くなって、その先が高畑山の頂上だ。11時ちょうどに到着。今までは樹林の陰になっていた富士の高嶺が、ここで今日始めて姿を現すことになる。移動性高気圧に乗っかって風が弱く、気温が上がった今日はさすがにその眺めが霞んでいるが、いまだ多くの雪を抱えた孤高の姿である。
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 汗を拭きながら富士山や御坂、道志の山々を眺めて、ふと思う。

 律令の時代から、甲斐国は国中(くになか)地方と郡内(ぐんない)地方に二分されてきた。甲府盆地以西の国中地方に山梨・八代・巨摩の三郡があるのに対し、東部の郡内地方には都留郡が一つだけ。その都留郡は相模川水系の幾つかの川沿いに僅かばかりの平地があるだけの、山また山の地域だ。甲府盆地との間を隔てる大菩薩や笹子、そして御坂の山々の険しさを思えば、この地域ではむしろ関東、すなわち相模川の下流地域との結びつきの方が強かったのも、当然のことなのだろう。

 今日はその都留郡の中でも更に東の方に来ている。今、山の上から見下ろしている地域は、戦国時代は小山田氏の勢力下にあったものの、相模の北条氏との間で合戦が繰り返されたという。これほど多くの山々が連なる中で、国境を漏れなく警備することなど出来たはずはないから、両国の争いはお互いにモグラ叩きのようなものだったのだろう。

 それにしても、天気の良い週末を狙って山歩きを楽しんでいる私たちとは違って、合戦のために山々を越えるとはご苦労なことだ。しかも、「兵農分離」が明確になる以前の時代は、農民を兵卒として動員できるのは農閑期に限られていた。まともな防寒具などない時代に雪の山越えとは、さぞかし難儀の連続であったに違いない。

 そんなことを考えつつ山頂での小休止を楽しんだ後は、登ってきた山道を穴路峠まで戻り、そこからは倉岳山(990m)への30分ほどの登りが待っている。稜線の北側は常緑樹の植林、南側は落葉樹の雑木林とはっきり分かれていて、光の明るさも好対照だ。道端にはスミレが咲き、頭の上では落葉樹の多様な新緑が目を楽しませてくれる。この山域には一昨年の晩秋に初めて訪れたのだが、今回のような新緑の季節も素敵である。
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 12時27分、倉岳山の頂上に到着。富士の眺めは高畑山よりもここからの方が雄大ではあるのだが、正午を過ぎてだいぶ霞んでしまった。相応に広い山頂。南北共に展望があって、登山者のグループがあちこちで昼食を楽しんでいる、私たちも支度を始めることにしよう。
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 T君がオハコの芋似鍋を温めている傍らで、彼が今回発案した「ナンチャッテ筍ご飯」の用意。沸騰させた出汁でアルファ米をもどし、予め煮た上で冷凍してきたタケノコ、油揚げ、ニンジンなどを温めてから米と混ぜ合わせれば出来上がりだという。N君はおつまみにコゴミや搾菜の薄切りを持ってきてくれて、春らしい献立が揃った。それを春爛漫の新緑の中で仲間たちと食べるのだから最高である。

 そして最後はバースデー・ケーキの登場。毎年この時期の山行では企画してくれるのだが、今日のメンバーの内、私を含めて4月生まれが3人いるので、その誕生日祝いに山でケーキを食べようという趣向なのだ。形を崩さずに山の上までよくぞ担ぎ上げてくれたものだ。それやこれやで、倉岳山頂での大休止は一時間に及んだ。
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 13時45分に下山を開始。頂上の直下がしばらく急だが、それを過ぎると小さなアップダウンを繰り返しながら20分で立野峠に着いた。新緑が始まった南側の雑木林の向こうには、道志の山々に続いて丹沢の檜洞丸が見えていたが、この峠でその眺めともお別れで、私たちは北側の谷を梁川駅に向かって降りて行く山道をたどる。

 薄暗い植林の中の道をどんどん下ると渓流沿いの道になり、落葉樹も混じり始めて森の中は幾分明るくなった。山道は少しずつ傾斜を緩めながら渓流を何度も渡る。山の上のように涼しい風が吹くわけでもないから、私たちは下りながら汗まみれだ。そんな時には渓流の水の冷たさが心地よい。
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 14時06分、立野峠からちょうど1時間ほどで舗装道路に出た。ここからJRの梁川駅までは20分足らずである。駅へ出る前にかなり高度のある橋で桂川を渡るのだが、橋の真ん中から眺める渓谷の眺めがいい。始まりだした新緑は、これから日々その濃さを増していくことだろう。
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 無生野から山を越えて桂川まで。甲斐の国・都留郡の山の深さを足で感じてみた半日だった。


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コメント 1

地元民です

>鎌倉に幽閉されていた護良(もりよし)親王が

もりよし ではなく、 もりなが 親王です。

>親王の子を身籠っていた姫はここで産気づくのだが、季節は年の暮れ。降り積もる雪の中で母子共に他界してしまった。その雛鶴姫の無念の思いから、「無情の野」が「無生野」になったという一説があるそうだ。

産気づいたため、この地の民家に「泊めてほしい」と哀願したが、すべて断られ出産したのち、出血が止まらず、亡くなってしまった。その血は三日三晩秋山川を流れ、石を赤く染めた(このため秋山川には赤い石、岩が多い)。というのが言い伝えです。
>その雛鶴姫の無念の思いから
雛鶴姫がそう思ったかどうかについての記述、言い伝えはありません。

by 地元民です (2015-09-08 21:37) 

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