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武士の嗜み [歴史]

 歳をとると、日本の伝統文化に改めて目を向けるようになることが、意外とあるものだ。

 若い頃はどうしても日本の外の世界にばかり意識が向いていたし、私が従事してきたビジネスの世界では、とりわけ欧米流のモノの考え方が重視されてきた。実際に海外駐在を経験してみると、欧米社会から学ぶものはまだまだ多いと思ったものだし、仲間内で「日本的なるもの」を語る場合は、どこかに「後進性」というニュアンスが込められることが多かったように思う。

 だが、’90年代の後半から21世紀の初めまで、世の中が大きく動いていった7年間を海外で過ごしているうちに、いつしか私は「日本」を強く意識するようになった。そして、その一方で日本の伝統文化についてロクな知識も持っていない自分にも気がついた。

 それも、もう10年以上も前のことだ。やがて帰国をして、歳と共に自らの役回りも、商売の最前線から管理的な仕事になっていく。自分の時間が持てるようになって、学生時代に親しんだ山歩きにも久しぶりにカムバックしてみると、祖国の山河の美しさは世界のどことも比べるべくもないものだ。だから、そうした風土の中で育まれてきた日本の繊細な伝統文化に、遅まきながら私は目を向けるようになっていった。

 「私はもう都心に出るものおっくうだし、中にお茶会の券も入ってるから、よかったら二人で行ってらっしゃい。」

 年老いた母が実家で私たちに渡してくれたのは、ある老舗の茶道具店が開催する展示会への招待状だった。日本の伝統文化といっても、私には茶道の嗜みは全くないが、たまには美術館に行ったつもりで、茶器や掛け軸、花器などを眺めるのも悪くはない。この週末は特に決まった予定もなかったので、土曜日の午後に家内と二人で出かけてみることにした。

 都営地下鉄・三田線の御成門駅から数分。東京美術倶楽部を訪れたのは私にとって初めてのことである。財団か何かかと思っていたのは私の無学の極みで、ここは1907年創立の、日本最古の美術商組織なのだそうである。建物の二階に上がると立派な和室のスペースがあって、そこで靴を預けて中に入ることになる。畳の上を進んでいくと、中の大広間が展示会場になっていて、数多くの茶道具が並べられていた。値段の記された新作、売り物ではない名品を取り混ぜての展示である。
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 一口に茶道具といっても、様々な道具があるものだ。抹茶をたてるという行為だけを想像すれば、まずは風炉に茶釜、柄杓に蓋置、茶壷、茶杓に茶入、そして茶筅といったところだが、その他にもお香を入れておく香合だとか、菓子器などの容器があり、袱紗や懐紙の類があり、床の間を飾るのは掛け軸と花器。いずれも愛好家にとっては凝りだしたらきりがないのだろうが、一つ一つに繊細な季節感が込められた、道具という名の美術品が並べられている。もちろん、今日の私たちは何か茶道具を買いに来たのではなく、主催者の茶道具屋さんには申し訳ないが目の保養だけをさせてもらうつもりで眺めている。

 眺め始めて10分も経った頃だろうか、別室でお茶会の準備ができたので、どうぞお入り下さいという案内があった。といっても、多少の経験のある家内と違って、私は茶道の基本のキの字も知らないし、どうやらドレスコードを今日は少々間違えてしまったようで、他の招待客は結構立派な身なりをしているから、やや気後れする部分もある。何よりも、お茶会が終わるまで正座をさせられるのは辛いなぁ・・・。いささか思案をしてしまったのだが、「これも一つの経験だから、やってみたら?」と家内が言ってくれたので、恐る恐る列に加わってみることにした。
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 部屋に通されると、正座が出来ない場合は椅子を貸してくれるというので、その点は事なきを得た。やがて、一人ひとりに茶菓子が運ばれてくる。一礼し、竹の箸を使ってこれを自分の懐紙に受けるという動作一つにも作法があるのだろうが、私には見様見真似より他に術がない。そして、そのアンコのお菓子の食べ方にもきっと作法がある筈であるが、これもまあ常識の範囲内で対応するしかないだろう。「一口でパクッはいけませんよ。」 私の左隣に座る家内の目がそう言っている。

 これをいただくと、たてられたばかりのお茶がいよいよ運ばれてきた。いただく前に器を少し回転させるとか、次の人に「お先に」という挨拶をするとか、お茶は三回半で飲むとか、私の予備知識はその程度のものだから、自分でも動作がぎこちない。

 それに比べると、お運びの人達の所作は実に洗練されている。一つ一つの動作が簡潔にして無駄がなく、きびきびしているのに、力みがない。そして、全体としては流れるように作業が進んでいく。そもそも、立ったり座ったりという時の身のこなし方自体が私たちとは違うのだ。それぐらい、普段の私たちは日本の伝統文化から遠く離れた生活をしてしまっているし、そのことへの意識も持たずにいる。これは少し反省しなければならない。

 「私どもは、室町の子といえる。
 いま、“日本建築”とよんでいるのも、要するに室町末期におこった書院造から出ている。床の間を置き、掛軸などをかけ、明り障子で外光をとり入れ、襖で各室をくぎる。襖には山水や琴棋書画の図をかく。……
 こんにちでいう華道や茶道というすばらしい文化も、この時代を源流としている。
 能狂言、謡曲もこの時代に興り、さらにいえば日本風の行儀作法や婚礼の作法も、この時代からおこった。私どもの作法は室町幕府がさだめた武家礼式が原典になっているのである。」
(『この国のかたち』 司馬遼太郎 著、文藝春秋)

 室町時代というのは、特にその後半からは乱世が続いた。乱れた世であったからこそ、人々は文化に秩序を求めたのだろうか。各地で争乱が絶えない中で、礼式や作法を極めた各種の文化が発展していったのは実に興味深いことだ。

 茶道もその一つで、千利休の名前が余りにも有名だが、いわゆる「わび茶」を始めたのは、利休よりもちょうど百年早く生まれた村田珠光だとされる。能阿弥から能や連歌の、そして一休宗純から禅の影響を受け、金持ちによる贅沢な会合になりがちだった茶の湯に深い精神性を持たせたのが珠光だったという。その珠光が始めた「わび茶」は、堺の豪商・武野紹鴎やその弟子の利休によって確立され、武士階級にも広まっていった。

 かつては武士の知的な嗜みであった茶道。それが明治以降はもっぱら女子の稽古事の対象になり、今では男子で茶道を嗜む人はかなり少数なのではないだろうか。だが、今の世界をぐるっと見渡してみると、茶道という一つの秩序を忘れてしまってもいい平和な時代が続くというシナリオよりも、そういう秩序が恋しくなるような動乱の世がやってくるシナリオの方がありそうだという気がしなくもない。とすれば、良くも悪くもグローバルに物事が動く時代になったからこそ、私たちは日本の伝統文化を忘れてはいけないのだろうと思う。

 家内と一緒に「和の空間」で過ごした一時。外に出てみると、昼過ぎから広がった青空にだいぶ赤味がさしている。さあ、家に帰ったら今夜の食卓は何にしようか。

 風に吹かれて歩く、都心の大通り。二人の影法師がずいぶんと長くなった。

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