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グローバル化の果てに [読書]

 「5年前」というと、今の時代のスピード感からすると、けっこう昔のことのように思ってしまうことがある。

 今から5年前の2007年、日本は政権交代のまだ前で、小泉政権の後を受けた安倍晋三首相が、年金記録問題や相次ぐ閣僚のスキャンダルなどから参院選に大敗し、首相就任から僅か1年で退陣を余儀なくされた年だった。

 この年の8月9日、フランス最大手・BNPパリバ銀行の傘下の3つのヘッジファンドが、時価算定と解約を一時凍結することを発表。そのニュースが飛び込んでくると、同様の投資をしていた他のヘッジファンドへの解約請求が相次ぎ、資金需給が急激に逼迫する事態になった。NYのダウ平均株価の下落幅は一日で400ポイント。「パリバ・ショック」と呼ばれたこの日は、後に世界を震撼させることになる米国発の大規模な金融危機の、その第一楽章が超アレグロで始まった暑い夏の日として記憶されている。あの日からもう5年以上が経ったのだ・・・。
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 序曲は、その前年から静かに始まっていた。

 米国で2001年から続いた住宅価格の上昇を背景に、2004年から大量の不動産担保ローンが組成され、それらを束ねて証券化した高利回りの金融商品が世界中で販売されたのだが、その中には信用力の低い個人を相手にした、いわゆる「サブプライム・ローン」も少なからず組み込まれていた。だが、長らく上昇を続けてきた住宅価格も2006年には軟化。そして2007年には下落が顕著になり始めていた。

 住宅ローンの担保となる不動産の価値が下落すれば、借入人はローンを返せない。(値上がりした物件を売却して返済するのが前提だったからだ。)そのことを懸念した機関投資家が、サブプライム・ローンなどの証券化商品に投資していたヘッジファンドから一斉に資金を引き揚げようとしたことが、パリバ・ショックの直接の原因だった。この日以降、世界の金融市場は周期的に動揺を繰り返すことになる。言うまでもなくそれは、翌2008年の秋にはリーマン・ショックという更に深刻な事態へと発展していった。

 私は2007年の春から仕事の面で世界の金融市場を注視する立場になり、その時に取引のあった内外の金融機関の、エコノミストやストラテジストなどの肩書きを持つ人々から解説を聞く機会が山ほどあった。そのこと自体は非常に勉強にはなったのだが、当時進行中の出来事を踏まえて、1年後・2年後の世界の姿を正確に言い当てた解説者は皆無だったと言っていいだろう。
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 住宅バブルの膨張 → 証券化商品の大量販売 → 住宅バブルの崩壊 → 証券化商品のデフォルト →金融機関の経営悪化 → 信用収縮 → 各国政府・中央銀行による金融機関の救済と金融緩和 → 政府債務の増大 → 国の信用力の低下 → 緊縮財政への圧力増大 → 先進国の景気低迷 → 新興国への影響 ・・・

 実際に起きた一連の出来事を後からだったら綺麗に説明できても、物事が起きている最中は先が見えないものだ。
 「各国が協調して利下げと金融の量的緩和をすれば、信用収縮は止まり、株価も戻る。」
 「戦前の大恐慌の時代とは違って、今は政府・中央銀行に知恵があるのだから、大パニックが起こることはない。」
 各社のエコノミスト、ストラテジスト達の論調は2008年に入った時点でもそんなものだった。目先の議論だけで、大局的にモノを見ることの出来る人は残念ながらいなかった。

 そして何よりも、彼らの説明に共通していた通奏低音は、
 「今は一時のアヤで市場が混乱しているが、世界の経済は今後も一層のグローバル化に向かっていくのだから、政府・中央銀行が然るべき対策を打てば、市場は再び安定を取り戻し、成長を続けていく。」ということへの信仰のようなものだった。つまり、グローバル化を進めることは疑う余地もなく良いことであり、それによって世界は今後も繁栄していくのだ、という考え方である。

 だが、その後の世界はどうだったのだろう。

 早くも過ぎ去ってしまったこの5年間だけでなく、資本主義の歴史そのものを振り返りながら、将来を20年ぐらいのスパンで展望してみようと思う時、『静かなる大恐慌』 (柴山桂太 著、集英社新書)は大変参考になる本である。
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①経済のグローバル化は、モノ・カネ・人を地球規模で最も効率の良い形で活用する最適な方法であるようでいて、実は世界経済を脆弱にし、危機を増幅するものであること。
②20世紀の初め、第一次グローバル化の果てにやって来たのは二つの世界大戦であったこと。
③未曾有の規模の金融緩和などにより、表面上は恐慌に至っていないが、リーマン・ショック以後の事態は資本主義の歴史上最大級のバブル崩壊であること。
などを巨視的に捉えた上で、無批判にグローバル化を信奉することに著者は警鐘を鳴らしている。

 こうしたグローバル化の原因であり、またその結果として増幅していったのは、米国の巨大な経常赤字と東アジアの巨大が経常黒字、そして単一通貨ユーロの圏内における南北の大きな経済格差という、グローバルなインバランスであるからだ。落差があるからこそ水が流れ、そして水車が回るようなものだろうか。

 「こうしたグローバル化は、世界経済が好調のときには各国の経済成長を加速させますが、副作用としてバブルの規模を大きくし、被害もグローバルに拡大させます。その被害が、国家の統治能力の低い新興国へと波及すると、危機はさらに複雑化するのです。」

 そして、国家という枠組みをなくすことが出来ない以上、行き過ぎたグローバル化は、そのメリットを享受出来ない人達との間に格差を生むために国内の政治的対立を招き、更には国家と国家の対立を招き、世界をますます不安定なものにしていくという。

 本書の優れたところは、資本主義やグローバル化というものを単に経済の問題として捉えるのではなく、国内政治や国家間の関係にまで踏み込んで考えていることだ。経済学、政治学、歴史学、そして思想史などの総合といっていいだろう。

 中でも興味深かったのが、ハーバード大学の経済学者ダニ・ロドリックの近著を引用しながら、経済の「グローバル化」「国家主権」そして「民主政治」の間でのトリレンマ(三つの要素のうち、論理的に二つしか選択できないこと)を説明していることだ。三つの中からどれか二つを選ぶと、残りの一つは決して達成できないという関係である。
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 そして、これら三つの中で選択されているのが現状では「グローバル化」と「国家主権」なので、既に述べたように、これを進めると国内で経済格差が拡大するが、その不満は押さえこまねばならず、従って民主政治が犠牲になる。更には、国家間での経済競争が地政学的な対立を招いていることは現実の通りである。

 この図式に従えば、例えば中国は民主政治を目一杯犠牲にしながら経済のグローバル化と強烈な国家主権を前面に押し出しているから、その分だけ国内での不満や他国との対立が深刻化せざるを得ないことが説明できる。しかも、国内での極端な経済格差や役人・党幹部の不正蓄財を放置し、一方で社会保障などの仕組みは総じて未整備だから、景気後退期のショックと人々の反発は大きくなるのだろう。

 本書からは少し離れるが、これは、既によく知られている「国際通貨制度のトリレンマ」と非常によく似ているところが面白い。ある国の通貨を国際通貨として機能させる場合に、「内外の資金移動の自由」、「自国の金融政策の独立性」、「為替相場の安定」の三つの中からいずれか二つを選ぶと、残りの一つは放棄しなければならないというものだ。
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 マネーが国境を越えて自由に動き、それでいて独自の金融政策を維持したいなら、為替相場の変動は避けられない。「グローバル化」と「国家主権」を選択した結果、どうしても蔑(ないがし)ろになってしまう「民主政治」は、日々揺れ動く為替レートのようなものなのだろうか。

 私が大学時代に経済発展論のゼミでお世話になったN教授の授業の中で、今でも印象に残っていることが一つ。それは、資本主義の歴史の中で「自由貿易」を語る場合に、そこでいう「自由」とは、「人は生まれながらにして自由であり・・・」というフランス革命の『権利の宣言』における「自由」のような概念ではなくて、国力の面で優勢な側に立つ者にとっての「自由」なのだということである。

 スポーツでも何でも、「ハンディキャップなしのスクラッチでやろう!」と提案する人は、自分の力が相手より勝(まさ)っているからそう言うのだ。自由貿易もそれと同じで、強者にとっての自由なのだから、「自由」貿易が議論の余地なく一番良いものであると、単純にそう考えてはいけないのだと。「グローバル化」という概念にも、これと共通する部分があるのだろう。

 とはいうものの、トリレンマの中で「グローバル化」と「国家主権」が選択されている世界の現状を、今すぐに変えられる訳ではない。「国家主権」と「民主政治」の並存を追及したブレトンウッズ体制に今から戻ろうにも、当時それを可能とした世界の枠組みはもう存在していない。ならば、どうすればよいか。

 ケインズ研究者の立場から、著者は「投資の社会化」という概念を重視している。

 「資本主義とは、投資によって人々が利用できる資本を増やしていく運動です。そこでいう資本には、貨幣換算の可能な、目に見える資本だけではなく、もっと別のもの――人間関係や組織の信頼、あるいは教育、知識などさまざまなもの――が含まれている、と考えるべきでしょう。貨幣のリターンを求める投資だけでなく、そういう有形無形のものに投資概念を拡張していくことが、低成長時代の資本主義のあり方を考えるうえで、重要なヒントになると思うのです。」

 もちろん、これは手がかりの一つであって、それ以上でも以下でもない。著者が繰り返し述べているように、ここから先に求められるのは「思想の力」なのだから、私たち皆が考えて行かねばならない。そして、経済学が経済学の中だけに安住することは、もはや許されない時代である。

 それにしても、世界にとって何と多難なこの5年であったことだろう。

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