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富士山麓の轍 (3) [鉄道]


 御殿場-甲府-松本を鉄路で繋ぐ構想をもって免許出願を行ったものの、御殿場-甲府間について免許が下りないまま、明治23年の経済恐慌によって構想自体が無期延期となってしまった「甲信鉄道」。『工學會誌』第百十一巻(明治24年3月刊行)に掲載された工学士・佐分利一嗣の論文から、明治政府の鉄道局が「妥当ならざる」と結論づけた御殿場・甲府間のルートを概観してみたい。

 官設の東海道鉄道・御殿場駅を出発すると、甲信鉄道のルートは「新橋、保土澤、川柳、萩原、印野等の諸村を通過す」とあるが、この間の10マイルほどの多くは田畑の間であり、平均して17‰の勾配で行けるとしている。地名の記載を順に追っていくと、勾配緩和のために二ヶ所ほどスイッチバックを想定したように思えるが、真相はどうだろうか。

 印野から篭坂峠までの12マイルは山林で、現在の陸上自衛隊東富士演習場の近くを回るようにして、篭坂峠へと上がる箱根裏街道(現在の国道138号線)に合流していくのではないかと思える。そして、篭坂峠そのものは長さ半マイル(約800m)ほどのトンネルで越えるとしている。
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(篭坂峠付近)

 篭坂峠を越えると、山中湖畔を経て富士吉田までは高原平野だからルートは比較的平坦だ。そして吉田からは河口湖方向に坂を上がり、現在の国道138号線と同様のルートで鳴沢地区を経由。樹海で有名な青木ヶ原で大きく右カーブして西湖西端の根場という集落へとたどり着く。「数個の村落と森林平野の間を過ぎ地勢平夷ならざるも七十分の一(=14‰)の勾配を以て通すべし。」とある。
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(富士吉田から根場へ)

 さて、ここからが核心部だ。根場の北側には御坂山地が東西に走っている。1500~1700mクラスの山々が連なっており、根場から見ると大きな壁のようだ。この山を越えるのに佐分利の出した案は、「五十五分の一(=18‰)の勾配を有する長さ2,700mの隧道を貫通す」るというものだ。山の向こう側は下り道が続くから、このトンネルも北側が低い片勾配のトンネルにして標高を下げておこうという訳である。
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(鍵掛トンネルと「斜面鉄道」)

 その当時、これがどれだけ型破りなプランだったのかを、私たちは理解しなければいけない。

 日本で初めての鉄道山岳トンネルが、しかも日本人だけの手によって完成したのは明治13年のことで、そ れは東海道本線・逢坂山トンネル(665m)だった。そして、明治17年には長さが2倍の北陸本線・柳ヶ瀬トンネル(1352m)が完成。だが、長さが2000mを越えるトンネルとなると、明治33年の篠ノ井線・冠着トンネル(2656m)や明治34年の中央本線・小仏トンネル(2574m)の開通まで待たねばならなかった。明治20年の時点で2,700mのトンネルを掘るなどというプランは、やはり当時の常識を遥かに超えたものだったのだろう。それに、長大トンネルは蒸気機関車の煙が立ち込めるから、機関士にとっては危険なものでもあった。

 だが、仰天するのはそればかりではない。

 「斯くて鍵掛の隧道を出てより芦川に達するに、延長2,600m、勾配十三・五分の一(=74‰)の斜面鉄道を用い以て鴬宿に達する」

 「斜面鉄道」とは聞き慣れない言葉だが、急勾配を登るための特殊な仕掛けを持った鉄道という意味であろうか。因みに、信越本線の碓氷峠(横川・軽井沢間)に導入された有名なアプト式鉄道が開業したのが明治26年だったから、甲信鉄道にゴーサインが出ていたら、ここが本邦初のアプト式鉄道になったのだろうか。(因みに、碓氷峠の最大斜度は66.7‰だった。)

 鍵掛トンネルの北側出口から芦川渓谷の鴬宿までの下り道。この区間だけアプト式鉄道にするのなら、機関車の付け替えが必要になったことだろう。そのスペースを作り、水と石炭をそこまで運ばねばならない。山の北斜面で日陰になり、冬ともなれば相応に積雪のある所だ。この「斜面鉄道」が実現していたとしたら、それはそれで維持管理が大変だったはずである。

 そして、鴬宿から先は、芦川の狭い峡谷を下る。急カーブ、急勾配の連続でトンネルも幾つか必要だ。佐分利の計算では平均して四十四分の一(=22.7‰)の斜度になるという。
 「要するに芦川の両岸は全線中至難の地なるが故に勾配隨て急にて、二個のスイッチバックを要する、実に止むを得ざるものなり。」

 そうやって延々と峡谷を下り、やっと甲府盆地の縁に出たところが市川大門だ。そこから甲府までは現在のJR身延線と同じようなルートになるのだろうが、このようなプロセスで御殿場から甲府へ列車を走らせるのだとしたら、誠にご苦労さまなことだ。加えて、長大編成の列車を走らせたり、将来的に複線化を図ったりというのは、極めて困難であったに違いない。
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(芦川渓谷沿いのルート)

 当時の日本にはまだ例を見ない長大トンネルと斜面鉄道、そしてスイッチバックが二箇所も必要な渓谷沿いの山下り。甲信鉄道の構想に対して鉄道局が首を縦に振らなかったのも想像がつこうというものだ。

 甲信鉄道の構想は潰えたが、佐分利一嗣は同じ時期に他の数多くの鉄道敷設計画に参画していたようで、その中で実現を見なかった計画は甲信鉄道だけに留まらない。そして一時期は成田鉄道の社長も務めたという。

 明治の日本人には、現代の我々には想像のつかないバイタリティーがあったのだと、改めてそう思わざるを得ない。


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