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分水嶺 [歴史]


 このブログを立ち上げてから、今週の月曜日で丸三年が経過した。中味は何もないが、この一年で約73,000件、一日当りでちょうど200件ほどのアクセスをいただいたことになる。一度でもご覧いただいた方々には厚く御礼を申し上げたい。

 この三年間で、数えてみると山歩きに64回出かけている。東京からの週末日帰り山行が中心だから、その行先はどうしても山梨県方面が多い。更に数えてみると、64回の山行の内、笹子の山をトンネルで越えたのが上り・下りで各11回ずつ。その内訳はJR中央本線と中央自動車道が半々といったところだ。だから、12月2日(日)の朝に起きた中央自動車道上り線の笹子トンネルで天井が崩落した事故は、とても他人事とは思えない。

 以前にも書いてみたことがあるが、甲斐国は甲府盆地を中心とした国中(くになか)地方と、東部の郡内(ぐんない)地方に大きく二分されてきた。富士川水系の前者と、相模川・多摩川水系の後者とを隔てるものが、大菩薩や御坂の分水嶺である。これらの分水嶺の尾根を辿り、その断面図を甲府側から眺めてみると、あらためてその険しさがわかる。標高260m前後の甲府市中心部から見ると、東の彼方に連なる、いずれも標高1000mを遥かに越えた分水嶺の山々は、まるで壁のようだ。
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 トンネルなどなかった時代には、甲斐の国中から東へ出るには、ともかくもこの分水嶺のどこかを越えなければならなかった。どこを取っても険しい山々だが、その中でも標高が最も低い箇所を選ぶとすれば、それは笹子峠(標高1,096m)ということになる。だから、かつての甲州街道はこの峠を越えるルートだったのだが、それは最大の難所でもあった。現在のJR笹子駅近くの黒野田宿から西へ、笹子峠を越えて次の宿場の駒飼(現在の甲州市大和町日影付近)まで、2里5町32間というから8.4kmほどの間が標高差500mの山道だったことになる。

 明治になって、この笹子の山々を最初にトンネルで越えたのは鉄道だった。明治35年7月、現在の中央本線となる官設鉄道の笹子トンネル(全長4.66km、単線)が、足掛け6年にわたる難工事の末に貫通。大月から線路が延びて、翌年2月に初鹿野(現・甲斐大和)駅までが開業している。

 その後長らく日本最長の鉄道トンネルであり続けたこのトンネルは、日露開戦も近い当時の状況下で工事が急がれたのだろう。トンネルを掘る作業もさることながら、建設資材を東西からこんな山奥へ運び込むこと自体が大変だったようだ。

 甲斐大和駅のホームの東端から望遠レンズで眺めると、今は下り線用に使われているこのトンネルの入口の上に取り付けられた扁額が見える。山縣有朋の書による「代天工」の三文字。「天に代わって工す」という言葉に、難工事を極めた当時の様子が凝縮されているかのようだ。
the plate.JPG
(笹子トンネル甲斐大和口のプレート)

 次に設けられたトンネルは、旧甲州街道だった。笹子越えのルートが道路になり、笹子峠を越える部分に長さ240メートルの笹子隧道が出来たのが昭和13年のことだという。だが、このルートは道幅が狭く、ヘアピン・カーブと急勾配の続く山岳路線だ。(今でも降雪などで通行止になることが少なくない。) 戦後になって、国道に相応しいルートが必要とされ、昭和33年に現在の国道20号線の新笹子トンネル(全長2.95km)が開通。片側一車線で対面通行のこのトンネルは、当初は一般有料道路としてスタートしたそうである。
sasago pass.jpg
(笹子越えの道)

 この新笹子トンネルの開通によって、笹子越えの旧道は県道へ格下げとなり、現在は県道212号(日影笹子線)となっている。

 次いで、国鉄中央本線の複線化に伴い、昭和40年に鉄道用の新笹子トンネル(全長4.67km、単線)が開通。上り線専用トンネルとなった。そして、最後に建設されたのが中央自動車道の笹子トンネルで、昭和52年12月に上り用・下り用のトンネルが同時に供用開始となった。だから、既に報道されている通り、今回の天井崩落事故はトンネルの開業から満35年というタイミングで起きたことになる。

 一昨年の3月、私は山仲間のT君と一緒に笹子越えのルートを訪れたことがある。その当時、県道212号は笹子隧道の手前で通行止になっていたので、クルマを停めて道路をしばらく歩き、隧道の前から山道に入って、笹子雁ヶ原摺山(1,358m)に登った。
old sasago tunnel.JPG
(レトロな趣のある県道212号の笹子隧道 2010年3月14日撮影)

 3月中旬といっても、その時の笹子峠のあたりの雪の深さには想像以上のものがあった。そこで思い出すのが、幕末の近藤勇のことである。

 慶応4年の年明け早々、鳥羽伏見で官軍に敗れた新撰組は、幕府の軍艦で江戸に帰還。近藤は幕府から新たな命を受け、「甲陽鎮撫隊」として甲府への進軍を目指す。そこで官軍を迎え撃つという建前はもっともらしいが、既に江戸無血開城のハラを決めていた勝海舟が「徹底抗戦派」を江戸から厄介払いにした、というのが真相だったとされる。

 その甲府への進軍が3月のことだったというから、近藤らは私たちが訪れた時のような積雪の中、笹子峠を越えたのだろうか。だが、進軍の前に地元の多摩で時間を無駄にした彼らは、甲府に着く前に官軍と遭遇してしまい、勝沼で戦いに敗れた。そこでメンバーから離反者が相次ぎ、新撰組は事実上壊滅するのだが、そこから江戸方面へと敗走した近藤は、再び雪の笹子峠を越えて行くしかなかったのだろう。

 雪を踏んでT君と登った笹子雁ヶ腹摺山。冬晴の空の下、その日は富士山や南アルプスの眺めが素晴らしかった。そのピークは中央自動車道の笹子トンネルのまさに真上である。雪に覆われた静かなピークの上に立ち、山深い景色を眺めながら、足元の稜線の地下に計5本ものトンネルが通っていることが何とも不思議だった。
from the peak.JPG
(笹子雁ヶ腹摺山の頂上からの眺め 2010年3月14日撮影)

 現在、甲府盆地から富士五湖方面へは、御坂山地を貫く道路用のトンネルが幾つもできているが、首都圏方面へ真っ直ぐ向かうルートは、鉄道にしても道路にしてもいまだに笹子トンネルを通るルートしか存在しない。(国道411号(青梅街道)は遠回りで標高も高い、これまた山道である。) 中央道のトンネル再開がいつ頃になるのか、特に崩落が起きた上り線については全く見通しが立っていないようで、人の動きや物流への影響が懸念されている。

 今も昔も、笹子の山々は巨大な分水嶺なのだと、そう思う他はない。

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