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心の忘れもの [自分史]


 仙台市の近郊にある工場への一週間の出張が終わり、東京に戻ってきた。

 外国から複数の技師を招き、工場内の同僚たちと様々な問題解決に取り組んだこの一週間。単なる目先の仕事に留まらず、技師たちとも、そして現場の同僚たちとも人間同士の触れ合いがあり、喜怒哀楽を共有することになった。やはり現地で過ごしてみてよかったと思っている。

 その一方、滞在中に東北の自然は実に様々な表情を見せてくれた。厳しい冬の時期だからこそ出会えた景色もあり、私にとっては毎日が新たな発見の連続であった。その中で特に印象に残った風景を、ここに書き残しておくことにしたい。

(1) 泉ヶ岳

 2月22日(金)、仙台の街は快晴の夜明けを迎えていた。この滞在中で最も好天の朝だ。ホテルの10階の部屋から窓の外を眺めると、北西の方角に、すぐに目にとまる二つのピークが並んで見えていた。左が泉ヶ岳(1175m)、右が北泉ヶ岳(1253m)。両者の間の谷にはスプリングバレー泉高原というスキー場があって、そのゲレンデの灯りが泉ヶ岳の右下に連なっている。
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(ホテルの窓から眺める泉ヶ岳)

 宮城県の仙台平野と山形県の村山地方とを隔てる山並み。それは、東北地方の背骨のように南北に連なる奥羽山脈と、東西に伸びる山々とが交差した、かなり広い範囲にわたる盛り上がりの中に沢山のピークを持つ地形になっている。それが船形山山系と呼ばれるもので、いずれも火山なのだそうである。それらの中で泉ヶ岳と北泉ヶ岳は比較的顕著なピークで、宮城県側から眺めるとすぐにそれとわかる形をしている。

 この山からは七北田川という川が流れて仙台市の水源の一つになっている。泉ヶ岳という山の名前も、私が滞在しているホテルがある仙台市泉区という地名も、いずれもこの山から豊富な水が湧き出ていることに由来するものであるそうだ。そのおかげなのかどうなのか、ビジネスホテルながらここにはラジウム人工温泉の大浴場があり、また周辺にも日帰りのスパ施設が幾つか立地している。

 部屋で熱いコーヒーを入れてから再び窓の外を眺めると、泉ヶ岳には朝日が当たり始めていた。街中から近郊の山々をいとも簡単に眺められる。それは地方都市の魅力の一つである。

(2) 船形山

 それから30分ほどクルマを飛ばして工場へと向かう間、見事な青空が続いていた。工場の建物の中では、三階の電気室に西向きの窓がある。そこから外を眺めてみると、船形山山系の盟主・船形山(1500m)が真っ白なその全容を見せていた。
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(遠景右の雪を被った平らな山が船形山)

 山の多い日本の中でも、こんな形をした山は珍しい。宮城県側から見たその姿は、上下がひっくり返った船を真横から見ているようで、まさに山の名前の通りだ。突出したピークがないから、どこが山頂なのかは眺めていてもわからない。(実際には「船底」の中央あたりに山頂があるようである。)

 山形県側ではこの山は御所山と呼ばれ、国土地理院の地図には両方の名前が併記されていることについては、以前もこのブログに書いたことがある。鎌倉時代に、承久の乱で流刑となり佐渡で没したとされる順徳天皇が、実は佐渡を脱出して出羽の尾花沢に落ちのびたという伝説が地元にあり、天皇がおられた場所ということから「御所」の名がついたという説があるそうだ。配流の身になったとはいえ、帝という「中央ブランド」は当時の出羽の人々にとって極めて大きなものだったということだろうか。

(3) 屏風岳

 船形山から稜線を左(=南)へとたどっていくと泉ヶ岳があり、その先は面白山を経て宮城蔵王の熊野岳や刈田岳が見えるはずなのだが、そのあたりは雲に隠れていた。だが、更に左を眺めると、一面に雪を被った、稜線は穏やかだが東側がすっぱりと切れ落ちた顕著な断崖を持つ山が見えている。蔵王南部の中核的な山にして宮城県の最高峰、屏風岳(1825m)である。
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(雪に覆われた白い断崖を持つ山が屏風岳)

 さすがにこれぐらいの標高の山になると、遠望してもその姿は実に堂々としている。屏風岳に限らず蔵王の山々は、別途機会を作ってゆっくり眺めてみたいものである。

(4) 七ツ森

 泉ヶ岳のピークから東方向に地形がどんどん低くなっていくと、鳴瀬川水系の南川ダムがあり、その東側を取り囲むようにして標高300m前後のポコポコとした低山が幾つも並んでいる。これが七ツ森と呼ばれる山々で、黒川郡大和町の水田地帯から眺めると、泉ヶ岳や船形山を背景にした七ツ森の全容がわかる。なかなか絵になる、愛らしい里山の眺めである。
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(大和町から見える山々)

 元々は、一番右に見える「たがら森」(232m)から左へ、松倉山(291m)までの七つの里山が七ツ森と呼ばれていたそうだ。それが今は「たがら森」が外され、右から二番目の遂倉山(307m)から一番左の最高峰・笹倉山(506m)までが七ツ森なのだそうである。

 この日の仕事も終わりに近づいた夕方、ふと外を見ると南西の方角に七ツ森の左の三つ、笹倉山・松倉山・撫倉山(359m)が工場からも見えていた。穏やかな形をした里山と、始まりだした夕焼け。どこか懐かしい、心ひかれる風景である。
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(5) 大雪

 2月24日の日曜日は、仙台市内でも朝からしきりに雪が降っていた。東北自動車道を経由していつものように工場へと向かい、大衡ICから下りると、その先の一般道は除雪をしていないから完全な雪道である。工業団地内は吹雪で視界が悪く、運転していても前は白一色の世界だ。

 日曜日の朝だから車も極めて少なく、轍も何も出来ていない新雪の上を走る。こんな経験も実に久しぶりだが、当然のことながら今のスタッドレス・タイヤは昔に比べて遥かに性能が良くなったようで、車の走行自体には何の問題もなかった。

 それにしても強い風雪だ。この日に出勤してきた社員たちも、「この時期にこんな大雪は経験したことがありません。」と驚いている。雪雲を通して太陽は白くぼんやりとしか現われず、太平洋側の気候とは言いながら一日中雪は降り続いた。
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 現代の私たちは防寒具に身を固め、工場内の事務所も当然のことながら暖房完備である。そして、みんな自家用車という交通手段を持っている。それに対して、昔の人々はどうやって寒さをしのいでいたのだろう。この近くで言えば、国道4号線の大和町吉岡地区は、江戸時代には奥州街道の宿場町だったところだ。家屋も衣類も当時はずっと貧弱だったはずで、そこに今日のような天候が襲ってきたとしたら、現代の我々なら音を上げてしまうことだろう。

 この日の大衡町は、日中もずっと氷点下だったようである。

(6) そして東京へ

 一週間の出張が終わり、私は午後の新幹線で東京へ。東北地方の大雪は続いていて、特に福島駅の周辺では激しい降雪になっていた。これでは山形新幹線が全面運休になるのも無理はない。それが、トンネルを抜けて郡山に出ると、窓の外に日差しが見え、那須の近辺では再び雪になったが、宇都宮ではもう完璧な青空だ。この小さな日本の中で、地域によって冬の姿がこれほど違うのは本当に不思議なことである。

 大宮を過ぎて埼京線が並走するようになり、荒川の鉄橋を渡ると、いつも見慣れた関東の冬の日没が始まっていた。
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 日がとっぷりと暮れ、高層ビルが林立する東京の夜景が窓の外を流れていく。明日からは本社で、再びデスクワークの毎日だ。だが、そのことが自分でもなぜかピンと来ない。今の私は、東北の雪景色やモノ作りの現場のどこかに、自分の心の一部を置き忘れてきてしまったかのようだ。

 工場から見えた七ツ森の山の形をもう一度思い出した時、用を終えた私の新幹線の乗車券は、東京駅の自動改札機に吸い込まれていった。

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