山歩きの代わりに

　4月28日（日）の快晴の朝、私は家の近くへ朝食前の散歩に出かけていた。ゴールデン・ウィークがいよいよ始まり、都心の朝は静かだ。そして、街の中の新緑は日に日にその濃さを増している。

　家から歩いて10分足らずのところに、占春園という緑地がある。陸奥国守山藩（現在の郡山市）の屋敷内に設けられた庭園だった場所で、鬱蒼とした緑のために夏でも薄暗いほどなのだが、この時期は新緑の若々しい輝きが何とも爽やかである。園内の池のほとりで空を見上げると、雲一つない澄み切った青空だ。こんな空を五月晴れというのだろう。



　時計を見ると、午前8時を少し回ったところだ。この好天の中、今頃は6人の山仲間が既に大月駅に着いて、タクシーで登山口を目指しているはずである。目的地の山は、山頂からの富士山の眺めの良さでつとに知られた山である。今日はそこから申し分のない山岳パノラマを楽しめることだろう。本来なら、私もそのメンバーの一人であるはずだった。昨日の午後の時点までは。


　前日の27日（土）の午後、実家の母の様子を見に行った帰りに、駅で電車を待っていた時、ポケットの中のスマートフォンが震えた。会社の関係者からの電話だった。29日（月）の、早ければ朝一番からの出張の日程を更に早めて、明日28日の夕方から仙台へ行って欲しいという。

　今週は週初から会社には問題が起きていた。主要な設備の一つに不具合が生じて、製品の生産に支障をきたしている。一刻も早く復旧させるべく、会社を挙げて様々な手を打ってきた。その中で私の出番は29日からだったはずなのだが、それが半日ほど繰り上がることになったのだ。

　会社の経営に責任を持つ立場上、言うまでもなく仕事は最優先だ。こんな好天の日に山へ行けなくなったのは残念ではあるが、やむを得ない。山は逃げる訳ではないのだから、またいつか機会を作ればいいだけのことだ。電話を受けた次の瞬間、私は頭の中のスイッチを切り替えて、急いで帰宅。諸々の関係者と連絡を取り合って新たなスケジュールを組み立てることになった。ビジネス（”business”）というのはその言葉の通り、忙しくなるように我が身を駆り立てるものなのである。


　「そう、それは残念だったわね。」
　出張の支度を始めた私を見て、家内が声をかける。そして、
　「でも、明日は夕方の出発なら、お昼間に公園へ行く時間はあるから、シート持って二人で行こうか？」
と切り出してくれた。家内も私も、この時期の好天の週末に、公園の緑の中で過ごすのが大好きだ。山の上からの富士山の眺めとまではいかないものの、都心の中で輝く緑をのんびりと楽しむのも十分に魅力的である。

　占春園への散歩を終えた私は、家内と共にいつものように日曜朝市へと一週間分の買出しに出かけ、帰って来てから身支度を整える。ピクニック・シートに紙コップと紙皿。そして、パンとチーズと赤ワインのボトル。それらを手提げに入れれば準備完了だ。それから家内と二人でメトロを乗り継いで、緑深い都心の公園に向かい、木陰にシートを広げたのが正午になる少し前だった。


　我家の子供たちがまだ小さかった頃から、この公園には何度やってきたことだろう。長男が幼稚園に通っていた頃などは、土曜日のお昼に幼稚園へクルマで迎えに行くと、その足でここまでやって来て、一家四人でおにぎりを食べた後は広い園内で遊んだものだった。あの頃も仕事が忙しくて、週末のそんな一時がささやかな楽しみだった。それから思えば、いまだに仕事に振り回されることがあるとはいえ、家内と二人でワインを持って公園へ行くようになったのだから、我家のライフスタイルもそれなりに変わってきたものである。


　芝生の上に寝転び、空と緑を眺めているうちに30分ほど眠り込んでしまったが、午後2時頃まで公園の中での時を楽しみ、私たちは帰宅。それから後は、頭の中もすっかり仕事モードだ。5時前に東京駅前のホテルで外国人技師をピックアップし、一緒に新幹線に乗って仙台へ。8時少し前に仙台郊外のホテルに入った。部屋で一通りのメールのやり取りをして、ふと窓の外の夜景を眺めると、国道4号線の赤い光の流れが見えている。

　山に行けなかった私を気遣ってくれた家内にもいい報告ができるよう、明日からも頑張ることにしよう。