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管領屋敷 (1) [歴史]

 JR横須賀線の北鎌倉駅は、どこかローカル線の匂いのする駅だ。東京方面からやって来ると、円覚寺の境内の緑に寄り添うような下り線のプラットフォーム、電車を降りると渡ることになる構内踏切、そしてクラシックで小さな駅舎。今では池袋から湘南新宿ラインの電車で一時間ほどなのだが、こんな駅の佇まいが、ちょっと遠くへやって来たという気分にさせてくれる。
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 駅前からクルマに注意しつつ鎌倉街道を鎌倉方向へ歩いていくと、やがて横須賀線の踏切が現れる。「第三鎌倉道踏切」というのがその正式名称なのだが、その名が書かれた標識板を眺めてみると、興味深いことに気づく。所在地の表記が「鎌倉市山ノ内東管領屋敷332」とあるのだ。鎌倉市の現在の住所表記は、町名である山ノ内のすぐ後に番地が来るだけだから、「東管領屋敷」というのは以前の表記方法なのだろう。
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 この踏切から数分も歩けば、あじさい寺として有名な明月院がある。その住所は鎌倉市山ノ内189だ。鎌倉時代の五代執権・北条時頼が建てた最明寺を前身に、八代執権・時宗が蘭渓道隆を開山にして建てた禅興寺。室町時代になって、その寺の中興を鎌倉公方・足利氏満から命ぜられた関東管領・上杉憲方が寺院を拡張し、その時に禅興寺の数ある支院の筆頭に改められたのが、この明月院だという。とすれば、「東管領屋敷」という地名表記は、この近辺に建っていたであろう、室町時代に関東管領のポストをほぼ独占してきた山内上杉氏の屋敷を指しているに違いない。
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(緑深い明月院の境内)
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 上杉氏のオリジンは、13世紀の京都に遡るという。源氏三代の将軍家が途絶えて、京都から宮将軍として宗尊親王が鎌倉に下向する際に、その介添えを務めたのが、公家の藤原清房の次男であったという。宗尊親王は後に謀反の疑いをかけられて都に戻るのだが、介添え役は鎌倉に留まり、武士となって幕府に仕えたという。領地の丹波国上杉庄に因んで上杉姓を名乗り、以後は上杉重房、すなわち上杉氏の祖として歴史に名を残すことになる。
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 その重房の孫のうち、清子、憲房の二人が、その後の歴史のキーになる。

 まず、清子が足利の嫡流・貞氏の側室となり、二人の間に足利尊氏・直義の兄弟が生まれた。つまり上杉氏は後の足利将軍家との姻戚関係が出来た訳で、実際に尊氏の鎌倉幕府打倒の際には上杉憲房もそれに与し、続く南北朝の戦乱時には尊氏の退却戦に身を挺して戦死したという。

 そして憲房の子・憲顕は、室町幕府成立の時期に鎌倉府の執事として尊氏の次男・基氏を補佐。その後、尊氏と弟の直義が対立した、いわゆる「観応の擾乱」では直義側についたために尊氏の怒りを買い、越後国・上野国の守護を解任されたりするのだが、基氏の要請によって憲房はカムバックを果たし、以後、鎌倉公方の補佐役である関東管領のポストを憲房の子孫がほぼ独占することになる。これが山内上杉氏の始まりである。

 因みに、先に明月院のところで述べた上杉憲方は、この山内上杉の始祖・憲房の子である。「明月院」とは、上杉憲方の法名そのものなのだ。その明月院には、鎌倉時代の作になる木造の上杉重房坐像が伝わり、今は重要文化財として鎌倉国宝館に寄託されているという。となれば、現在の大船から横浜市の一部にわたるという広大な山内庄の中でも、明月院の周辺は山内上杉氏にとって極めて重要な土地であったのだろう。
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 14世紀の半ばに鎌倉幕府が滅亡した後、16世紀の半ばに世が戦国時代に突入するまでの200年ほどの間、いわゆる南北朝室町時代は、なかなか一筋縄では語れない時代である。足利将軍家をはじめ、有力守護大名が畿内に集まって政権を作っていたこともあってか、学校の歴史の授業でも、語られるのは京都を中心とした西日本の話ばかりだ。一方、授業ではあまりフォーカスの当たらない15・16世紀の関東の歴史はというと、これがまた実にわかりにくい。

 鎌倉時代は、東国武士団のメッカとも言うべき鎌倉に幕府が置かれ、将軍もそこにいた。そして承久の乱(1221年)を受けて幕府の出先を京都の六波羅に設け、朝廷の動きを監視した。それに対して室町時代は、幕府と将軍が京都にあったため、将軍不在の関東をどう治めるかが大きな課題となったようだ。
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 鎌倉には「ミニ幕府」のような鎌倉府が置かれ、足利尊氏の次男・基氏の子孫が歴代の鎌倉公方を務めるのだが、「革命」前後の波乱万丈を体験した基氏とは異なり、後の世代は生まれながらにして鎌倉公方だ。次第に京都の幕府に対する独立心や対抗意識が湧いて出て来ることになるのは当然のことだろう。だから、鎌倉公方も折あらば京都の将軍ポストを狙おうとする。そして、その鎌倉公方の「補佐役」として置かれた関東管領との対立を起こすようになった。それが合戦に及んだ最初の例が、四代目鎌倉公方・足利持氏に対する上杉禅秀の乱(1416~7年)であり、その約20年後に、今度は持氏が上杉憲実に対して兵を挙げた永享の乱(1438~9年)が起きている。(但し、幕府の援軍に攻め込まれて持氏は敗死。)

 これにより鎌倉公方の空位が続き、持氏の遺児・成氏の公方就任が許されてからいくらも経たないうちに、対立が再燃する。成氏が管領・上杉憲忠を謀殺した1455年からは、以後約30年にわたる戦争(享徳の乱)となり、応仁・文明の乱より10年以上も早く、関東は全土を二分する戦乱の時代に突入。公方は鎌倉を失い、利根川の向こうの古河に所在を移すことになる。だが、基本的な構図はまだ、将軍・関東管領 vs. 鎌倉公方だった。

 ところがその後、上杉氏の中でも、関東管領のポストを独占してきた山内上杉と傍流の扇谷上杉の対立が始まる(長享の乱、1487~1505)。いつしか彼らは鎌倉を離れ、関東平野の真ん中で、時には古河公方も巻き込みながら埒もない戦を続けるようになった。そして更には、そんな戦の間隙を突いて伊豆や小田原を「盗んで」しまう北条早雲のような人物までもが現れることになる。

 ざっと15世紀を眺めただけでも、関東はそんな歴史をたどってきた。その中で、常に重要な存在であったのが鎌倉の町である。「武家の都」としての世界遺産への登録を果たせなかったのは残念だが、上記のような歴史を外国人に理解してもらうには、確かにハードルがかなり高そうだ。

(to be continued)

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