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管領屋敷 (2) [歴史]


 北鎌倉の駅から鎌倉街道を南に向かい、長い坂道を下りると左手に鶴岡八幡宮。その八幡さまの正面から、折れ曲がりながら東に向かう道をたどると、程なく「岐れ路」という信号が見えてくる。クルマの通行の多い道をそのまま直進すれば、浄妙寺や報国寺を経て、港のある六浦(むつら)に至る。他方、左の道を選ぶと鎌倉宮を経て二階堂地区に出る。標高百メートル前後の山に深く谷が刻まれた、鎌倉らしい地形が続くところだ。

 その二階堂地区の一番奥に立地する、谷と一体になったような寺院が瑞泉寺である。無窓国師を開山とする名刹で、その庭園(一般公開はされていない)の美しさでも有名だ。そして、初代の鎌倉公方となった足利基氏以降、歴代の鎌倉公方の菩提寺でもある。
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 この瑞泉寺の境内の一角に、かつて40年間ほどだけ存在した寺があったという。基氏の二代目・氏満が世を去った時、三代目の満兼が供養のために寺を建て、氏満の法名を寺号にしたそうだ。それが永安寺(ようあんじ)である。

 前回も触れたように、初代の足利基氏はともかくとして、鎌倉公方は新世代になるたびに京都の将軍・幕府への対抗意識が強くなっていった。そして、その不穏な動きを様々な手立てで制してきたのが、歴代の関東管領だった。

 1379年、京都で管領・細川頼之が失脚した、いわゆる「康暦の政変」が起きた時などは、将軍・義満に向けて兵を挙げようとした鎌倉公方・氏満に対して、関東管領・上杉憲春は自刃することで氏満を諌めている。同様に、三代目の満兼が大内義弘の応永の乱(1399年)に呼応して、反義満の進軍を始めた時には、関東管領・上杉憲方がこれを止めた。

 しかし、それでは済まなかったのが四代目の公方・足利持氏だった。時の関東管領・上杉氏憲(禅秀)との対立を深め、この時は禅秀側からクーデターが起こされたが(1416年)、翌年に鎮圧される。その後の持氏は、将軍・義持の死後に「くじ引き」で後継将軍の座についた義教にあからさまな敵対心を燃やしていった。
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(再掲)

 1438年、幕府と持氏の対立が決定的なものになると、関東管領・上杉憲実は領地の上野国へ下り、隠遁。これを反逆とみた持氏は憲実討伐の兵を挙げた。世にいう永享の乱である。

 これに対して将軍・義教が救援の軍勢を差し向けたために、持氏軍は敗れ、自身は寺に幽閉の身となって、上杉憲実経由で義教に許しを請う。だが義教は許さず、憲実に持氏の追討を命じる。寺を攻められた持氏は、万事休して自害。その寺は戦火で消失し、再建されることはなかった。これが前述の永安寺なのだ。

 この後、持氏の遺児たちを巡って永享の乱の延長戦のような戦が北関東で起こるのだが(結城合戦、1440年)、将軍・義教も京都で謀殺されてしまったことから(嘉吉の乱、1441年)、遺児の一人が持氏の後継の鎌倉公方に就任することが後に許された。これが足利成氏(しげうじ)である。だが、この成氏も程なく幕府に対抗するようになり、時の関東管領・上杉憲忠を謀殺して戦を始めてしまった。それが「関東の三十年戦争」とも言うべき享徳の乱(1455~83年)である。

 鎌倉の地図を見れば、鎌倉公方の御所があったとされる浄妙寺のあたりは、(境内の一角に永安寺があった)瑞泉寺とは裏山一つ越えた程度の距離である。そして、関東管領・上杉憲実は北鎌倉・山ノ内の「管領屋敷」に普段はいたのだろう。そこまでも、馬を飛ばせばたいした距離ではない。この箱庭のような土地の中で始まった両者の対立が、やがては利根川を境に関東全土を二分する戦乱へと繋がっていったのだから、歴史というのは不思議なものである。
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 二階堂の瑞泉寺から鶴岡八幡宮に戻り、なおも西に向かってJR横須賀線の線路を横切ると、深い緑の中に英勝寺という尼寺が建っている。太田道灌の子孫の手により開かれた寺だそうで、総門の脇には「太田道灌邸旧跡」と書かれた石碑が見える。あの太田道灌が江戸城を築く前に住んでいた屋敷の跡である、という趣旨の碑文だ。
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 一方、この英勝寺と線路を隔てて反対側(東側)を少し行ったところに、「扇谷上杉管領屋敷遺迹」という石碑がある。扇谷上杉の系譜が関東管領のポストに就くことはなかったから、その屋敷を「管領屋敷」というのはちょっと言い過ぎだが、それは15世紀後半に出た上杉定正の時に扇谷上杉の権勢が俄かに強まったことから、山内上杉と共に「両上杉」、「両管領」という言い方があったからなのだそうである。そして、二つの石碑が線路を挟むようにして立つのは、扇谷上杉氏の家宰を務めてきた太田氏の屋敷が、主君の屋敷と向き合っていたことを示しているのだろう。
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 上杉定正の時代に扇谷上杉が力を強めたのは、享徳の乱の後半に、山内上杉の家臣であった長尾景春が乱を起こしたために、山内上杉の軍勢が一時総崩れになったのを、太田道灌の活躍によって定正の軍勢が長尾勢を打ち破り、乱を平定したためだった。(これを妬んだ山内上杉の顕定の讒言が定正の猜疑心を呼び、やがて道灌は定正の手勢によって謀殺されることになる。)

 だが、両上杉は並び立たず、15世紀の末期には互いに覇権を争うようになる。それが、1487年から18年も続いた長享の乱である。山内上杉は上野国と武蔵国北部、扇谷上杉は武蔵国南部と相模国を主な勢力範囲として、関東平野を舞台に戦を続けた。

 享徳の乱と合わせれば50年も争乱の時代が関東では続いた訳で、国力も戦力もおおいに疲弊し、守護職や関東管領職も次第に権威を失い、両上杉は新興勢力である後北条氏(北条早雲、氏綱、氏康・・・)の侵入を許してしまうことになる。早雲が伊豆に討ち入ったのが1493年、小田原を奪取したのが、長享の乱の最中に上杉定正が馬から落ちて死んだ翌年の1495年。ここまで来れば、もうプレ戦国時代だ。

 「上杉の時代」をキーワードに、駆け足で訪れた鎌倉。あらためて色々なことに気付かされた半日だった。世界遺産になろうがなるまいが、この町が持つ歴史的な価値は、いささかも変わらない。

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