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復活 [自分史]

 12月31日(火)、大晦日。2013年がもうすぐ終わろうとしている。

 これまで仕事の忙しさにかまけて年末年始の準備が遅れに遅れていたが、会社が年末の休みに入って4日目ともなると、残る作業もさすがに少なくなってきた。ちょっとした買出しの手伝いやクルマの洗車に午前中の時間を使い、昼過ぎからは息子と二人で都内の実家へ。明日の元旦には午後から我家と妹の一家が実家に集まるので、一人暮らしの母はそのための台所仕事をしていた。さすがに年老いて身動きもゆっくりゆっくりだが、孫たちも含めて家族全員が揃う、年に何度もない機会をやはり楽しみにしている様子だった。

 15時半には帰宅して着替え、再び外に出て一時間ほどのジョギングに汗を流す。休みの間はつい飲み食いしてしまうことが多いから、体を動かすのはやはり気持ちがいい。家に戻って熱いシャワーを浴びると、窓の外は今年最後の日没が始まっていた。
New Year's Eve.JPG

 一家四人で食卓を囲み、年越し蕎麦で一時を過ごす。今年は春から娘が会社勤めを始め、今月からは司法修習を終えた息子の弁護士稼業が始まった。着物の着付けを習ってきた家内は、次のステップに進むことになり、平日は忙しそうだ。それやこれやで家中が出たり入ったりの一年となったが、それは各自の人生のステージがそれぞれに進んでいることの証でもあるのだろう。それだけに、一家四人が集まって賑やかに食卓を囲むことのありがたさは、格別だ。

 それでも、食事の後の「紅白歌合戦」は家族たちにリビング・ルームで楽しんでもらうことにして、私は寝室の片隅の書斎から一組のCDを取り出す。この一年を締めくくるにあたり、グスタフ・マーラーの交響曲第2番ハ短調(復活)を聴いておきたかったのだ。

 1860年にボヘミアに住む裕福なユダヤ人の家庭に生まれ育ち、15歳でウィーン楽友協会附属音楽院に入学したマーラー。若くして作曲への才能を発揮するも、当時はベートーベンのロマン派音楽を引き継ぐ体制派にその音楽はなかなか受け入れられず、彼は食い扶持を指揮者の道に求めざるを得なかった。

 その指揮者の道も一筋縄ではいかず、関係者と衝突しては転職を繰り返す日々。それでも、指揮者の仕事の傍らで作曲も続けていたという。その中の一つが「葬送」をテーマにした第一楽章に始まる大規模な交響曲の構想だった(その何とも重苦しい第一楽章は、辛いことに直面した時にこそ聴きたくなる、私の胃の腑にズシリと響くものだ)。続く第2~4楽章も次々に書き上げたのだが、ベートーベンの第九のように最終楽章に合唱を導入することを企図するも、なかなか自分のイメージに合う詩を見つけられずにいたそうだ。

 それが、1894年に名指揮者ハンス・フォン・ビューローが他界し、ハンブルグで営まれた葬儀に出たマーラーは、そこで歌われた19世紀のドイツの或る詩人の作になる『復活』を用いたコラールを聴いて大きな感銘を受け、この詩を最終楽章に用いることを決めたという。そうやって出来上がったのが前述の交響曲第2番だ。マーラーが34歳の時の作品である。それは翌年の暮に彼自身が指揮するベルリン・フィルによって全曲の初演が行われた。
mahler's 2nd symphony.jpg

 本人の解題によれば、或る英雄の死とその復活、そして最後の審判と神の栄光を描いたというこの作品。イエス・キリストの名前こそ登場しないが、いかにもキリスト教的な考え方に基づいていると言えよう。後期ロマン派の音楽家としてベートーベンの最後の交響曲を大いに意識した作品であるが、その第九よりもマーラーの『復活』の方が私は遥かに好きだ。大晦日の夜は、やはりこの『復活』に包まれて年を越したい。

 間もなく暮れようとする2013年。安倍政権の下で、日本ではこの国の「復活」への様々な取り組みが始まった。それとたまたま軌を一にするように、私の会社でも、厳しい外部環境に立ち向かうために、今までの社史にもない様々な改革に着手した一年だった。と言っても、何かに取り組んですぐに目に見える形でその成果が現れるとは限らない。いや、むしろその大半は、何らかの手応えを感じつつも成果の刈り取りはまだこれから先のことだ。それでも、新しいことに取り組んでいなければ、その僅かな手応えさえ得られなかった筈だ。だから、くじけずに、いつの日かの復活を期して、私たちは前を向いて行かなければならない。

 もっともキリスト教では、死後に復活した後も、私たちは神による最後の審判を待たなければならない。しかも、その結果として各自が天国へ行けるかどうかは予め決められているという。生きている間にどんなに善行を積もうが、そうでなかろうが、それは最初から神によって決められたことで、抗いようのないことなのだと。

 私自身はキリスト教徒ではないから、私自身の死後の行方が全知全能の唯一神によって予め定められており、いつか最後の審判が下るという考え方が、どうもよく解らない。神様は山の頂や深い森、そして竈の火の中にもおられて、私たちが穏やかに、そして実直に日々を生きていくよう私たちを律し、静かに見守って下さる存在なのだと、どうしても思ってしまう。だとすれば、生きている以上は神様に恥ずかしくないように、人の道を外さず、自らの手で懸命に努力して未来を切り開き、私たちのこの国や自分の会社の「復活」を遂げようではないか。

 マーラーの2番は、今夜もズシリと重たい。その分厚い音の重なりに打ちのめされそうになりながら、それでも終章の合唱に救われて我に返ると、窓の外では、真夜中の静寂の中にも、いつしか遠くで除夜の鐘が始まっていた。
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 あと何度か呼吸をする間にもやって来る新しい年。私自身もまた一つ新しくなって、前を向いていこう。


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