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古(いにしえ)の火山 - 箱根・三国山 [山歩き]


 12月最初の土曜日の午前10時過ぎ。Oさんが運転するデリカが箱根峠の「道の駅」に着いた。暦の上では二十四節気の「大雪」だが、今日は穏やかな晴天で、東京からも道中も、東名高速道路から富士山がよく見えていた。風がなく、思っていたほど寒くない。Oさんも含めて総勢8人の私たち山仲間は、簡単に身支度を済ませて10時20分に行動を開始。国道を渡って登山道に入り、静かな森の中を緩やかに登り始めた。

 山仲間といっても、このメンバーが揃うのは年に一回のこと。後輩のH君が音頭を取って企画をしてくれ、今日はこれから箱根の外輪山の稜線に沿って三国山(1102m)を目指し、そこから芦ノ湖の湖尻へと下りるルートを歩く。下山後はH君が会員になっているリゾートホテルに泊まらせてもらう予定だ。

 長く勤めたかつての会社で、今日集まった私たちは山岳ハイキング部の活動をしていた。もう四半世紀以上も前のことだ。当時はまだ駆け出しで仕事が忙しく、土曜日も会社は営業していた時代だったから、休暇を取るのもなかなか大変だったのだが、それでも年に何回かは泊まりで山へ出かけたものだった。その時の先輩・後輩の関係が四半世紀の時を超えて今も続いているのだから、人と人のつながりというのは不思議なものである。そんな訳で、今日の私たちは朝集まった瞬間から若い頃の自分に舞い戻っている。
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10:20 道の駅 → 11:50 山伏峠 → 12:55 三国山

 国道1号線を挟んで「道の駅」と反対側から始まる登山道。森の中を、十二園地という場所までは緩やかに登っていくのだが、そこからは妙に下り道が続く。その分だけ登り返しが待っていて、これが案外と急だったりするのだが、階段状の登りを我慢してやり過ごすと、急に頭の上が明るくなり、深い森を抜け出して、ススキとハコネダケが茂る箱根外輪山の尾根に出た。
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 そこからは左手の芦ノ湖スカイラインに沿うようにして、広々とした尾根の上を歩くようになる。後ろを振り返れば、アンテナの立つ鞍掛山がよく見えている。私たちは外輪山の尾根に沿って歩いているのだから、言わば月のクレーターのような地形を想像していたのだが、目の前に広がるのはまるで草原のようだ。
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 有料道路を左手に見ながら広々とした尾根をしばらく歩いた後、登山道は再び右手の森の中へと入っていく。葉の落ちた木々の枝の向こうに、金時山から明神ヶ岳へと続く北の山並みが見え隠れしている。細かなアップダウンを繰り返しながら少しずつ高度を上げ、道が再び芦ノ湖スカイラインに寄り添うようになって展望が開けると、山伏峠だ。食事の出来るレストハウスの裏手から、ここで初めて芦ノ湖を見下ろせるようになった。
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 一休みしながら元箱根の方を眺めると、二子山が大きく聳え立ち、その背後にも山並みが続いている。なるほど、箱根の山は天下の嶮だ。私はいつしか、北条早雲の時代に思いを馳せていた。
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 戦国大名の嚆矢とされる北条早雲(1432または1456~1519)が、伊豆から箱根の山を越えて小田原城を攻め、一夜のうちに領主・大森氏を追い出してしまったのは、1495(明応4年)9月のことである(他に諸説あり)。 三島に軍勢を集めた早雲は、箱根の山の大規模な鹿狩りを装い、勢子に扮した軍勢と共に西から箱根の坂を登る。

 三島から箱根峠までの標高差は800m強。現在の国道1号線も結構な山道だ。その箱根峠に辿り着くと、正面に初めて姿を見せるのが、中央火山の神山・駒ヶ岳と、その足元に広がる芦ノ湖である。現代の私たちはクルマで軽々とここまで上がれるが、15世紀末という時代に箱根の山を越えるには、どんなに難儀をしたことだろう。

 まして、早雲が生き抜いたのは極めつけの乱世であったから、街道としての東海道の整備を進めるような公権力もなく、山賊も出たに違いない。命がけで文字通りの山道を自分の足で登って来た者でなければ、芦ノ湖のその姿を目にすることが出来なかったはずだ。その分だけ、実物を目にした時の人々の感動も大きかったことだろう。

 「箱根のふしぎさは、登りつめたところに、青い水をゆたかにたたえた湖のあることだった。この容易ならなさが箱根権現の神異であるとひとびとに感じさせてきたが、早雲もこのときばかりは、眼下にひろがる長さ二里の芦ノ湖の水の青さに感動し、これこそ箱根権現の神の衣の色にちがいないと思ったりした。」
(『箱根の坂』 司馬遼太郎 著、講談社文庫)

 山伏峠の先の左手には、富士山の展望スポットがある。今朝早く、東名高速道路からその姿を見せていた富士山は、私たちが山伏峠に着く頃にはムクムクと湧く雲の中に隠れてしまった。ちょっと残念だが、まあ仕方がない。私たちは再び森の中を登っていく山道を辿り、13時前に三国山の山頂に到着。簡単に昼食をとることにした。冬至まであと二週間、雲間から山頂を照らす午後の光は、もうどこか赤い色をしていた。
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13:15 三国山 → 14:00 湖尻峠出入口 → 14:45 桃源台

 落葉を踏みしめながら、山を下る。今朝のスタート地点から2時間半余りを北に向かって歩いてきたから、木々の間から見え隠れしている金時山も、だいぶその姿が大きくなってきた。しばらく森の中を下り続けて、再び有料道路に近づくと、前方に広々とした景色が見えて来る。千石原方面へ下りていく芦ノ湖スカイラインと、湖尻峠を経て長尾峠の西側へと続く箱根スカイラインの分岐になる場所だ。
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 外輪山の尾根歩きはここで終わり、ここから山道は右手の芦ノ湖に向かって一本調子に下りていく。よく手間をかけて整備された石畳の道なのだが、表面が幾分苔むしていて滑りやすいのが玉に傷だ。今日の私たちのメンバーも、この箇所が一番緊張したと口々に語っていた。まあそれでも、15分も我慢すれば芦ノ湖に沿った林道に出る。この林道をしばらく歩き、ゴルフ場とキャンプ場を過ぎれば舗装道になる。桃源台のバスターミナルはその先だ。それにしても、穏やかな一日だった。
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 箱根の山が火山活動を始めたのは、今から40万年前のことだそうである。以後も噴火を繰り返し、25万年前には標高2,700mクラスの大きな成層火山になったという(「古箱根火山」と呼ばれる)。要するに今の箱根の山全体が富士山のような形をした一つの火山であった訳だ。
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 ところが、噴火によってその成層火山の内部が空洞化し、18万年前頃に大規模な陥没を起こして、富士山型の山は姿を消してしまった。その時の名残が、今日歩いてきた三国山をはじめ、丸岳、金時山、明神ヶ岳、明星ヶ岳、白銀山、大観山などの外輪山なのだそうである。

 成層火山が陥没した後の中央カルデラでは13万年前から再び火山活動が始まり、楯のような形の火山が姿を見せるが、これも5万年前に爆発して山体が吹き飛んでしまう。この時の名残が、浅間山、鷹巣山、屏風山など、中央カルデラの南東部に残る外輪山だという(「新期外輪山」)。この時の火砕流は横浜の一部にまで達したというから、私たちの想像を遥かに超えたものという他はない。

 そして、4万年前に中央火口丘で再び火山活動が始まり、その時の噴火で出来た溶岩ドームが、現在の私たちにおなじみの台ヶ岳、神山、駒ケ岳、二子山などの山々なのだそうだ。

箱根に標高2,700mの成層火山があったとしたら、それはどんな風に見えたのだろうか。金時山の南西にある乙女峠から台ヶ岳、神山、駒ケ岳、元箱根、鞍掛山を結ぶ断面図にその姿を置いてみると、以下のようになる。古箱根火山は実に大きな山だ。
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 それは、東京の都心からでもよく見えたことだろう。そう思って、カシミール3Dで「古箱根火山」のシミュレーションを作ってみたのが、以下の図である。なるほど、こんなに大きな山が盛んに煙を吐いていたら、富士山はその役を喰われていたかもしれない。
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 桃源台に停めておいた一台のクルマで、箱根峠の「道の駅」に停めたOさんのクルマを取りに戻り、それから私たちはクルマ二台で強羅を目指す。午後の日はすっかり傾いて、さすがに寒くなってきた。金時山の尖った山頂が、色彩を失い始めた北の空を突いている。そして、温泉町らしい硫黄の匂いが外には漂い始めた。

 強羅の宿に着いて、温泉で汗を流したら、後は楽しい語らいが待っている。かつての職場で若い頃に山を一緒に歩いた仲間たち。さて、今夜はどんな話題に花が咲くだろうか。

(注) この山行から帰って来た後は公私共に多忙な日が続くことになり、記事のアップが一週間遅れになってしまった。やはり年末は慌ただしいものだ。
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