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長さ1㎝の病変 (1) [自分史]


【10月29日(水)】

 電車のホームからエスカレーターを上がって駅の改札を出ると、午前9時の外の光がまぶしい。

 今日は平日だが、私は普段着だ。右肩にデイパック、左手に小さなキャリング・ケースを引いて、駅前の横断歩道を渡る。左には神宮外苑の杜が広がり、大通りをひっきりなしに車が走り抜けていく。そして、私が歩いていく方向には大学病院の建物が聳えている。今日からしばらくの間、ここにお世話にならねばならない。こんな日に限って、頭の上は抜けるような秋の青空だ。
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 「こんな場所でアレなんだけどさ、ちょっと話しておきたいことがあるんだ。」

 旧友のS君が私の隣に寄ってきて書類を見せ始めたのは、今年5月後半の土曜日の夜。高校のクラス会の二次会が始まってしばらくした頃だった。万年幹事の私は、店との間でそれなりにやり取りすることがあり、ようやく自分の席に着いたばかりだった。

 S君は消化器内科の医師をしていて、私は健診目的での胃や大腸の内視鏡検査を過去何回か彼に頼んできた。今年5月の連休前に胃の検査をお願いした、その時に彼は胃の少し先まで診てくれたのだが、十二指腸の曲がりくねった所に、ちょっと気になる箇所を見つけたのだという。

 病変部分は1㎝ほどの大きさだが、組織を取って調べたところ、それは線腫と呼ばれる腫瘍の一種で、緊急性はないものの放っておくと癌化する可能性があるから、積極的に切除した方がいいとのことだった。但し、部位が奥にあるために通常の内視鏡検査のような環境下では処置が難しく、体が動かないよう全身麻酔をかけた上で、長い内視鏡を使って病変部分を切除する必要があるという。従って、そうした設備を持つ病院への入院が必要になる訳だ。そして、この手の手術では日本の第一人者である大学病院の先生に紹介状を書いてくれるとのことだった。

 病気のことは、私にはわからない。だがS君にはいつも全面的な信頼を置いているので、彼のアドバイスには是非もなく従うことにした。それにしても、クラス会の席上でも私の体のことについてこんなに親身になってくれるとは、何ともありがたいことだ。

 大学病院は朝のこの時間からもう混雑が始まっている。当日入院受付の窓口で手続きを済ませると、さっそく9階にある消化器外科の病室へと誘導された。4人部屋の窓側のベッドで、ずいぶんと日当たりがいい。窓からは富士山と丹沢の山々がよく見えていた。
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 私はこれまで、医者にかかることは滅多にない人生を歩んで来た。風邪をひくこともごく稀で、社会に出てからはインフルエンザの予防注射も受けたことがない。他に大きな怪我や病気をしたこともなかった。まして入院となると、子供の頃に扁桃腺の切除の手術を受けた時以来だから、実に半世紀ぶりということになる。他人のお見舞いに行く時でさえ、病院の中にいるのは苦手なのに、まして自分が入院などすることになったら、どんなに気が滅入ることだろう。今回のことが決まってから、私にとってはそれがずっと憂鬱の種だった。

 手術は翌日の14時と決まっており、事前の各種検査はこれまでに全て済ませていたから、入院当日は特にすることがない。かといって外出することも出来ないので、私は病室のベッドで本を読んで過ごすしかなかった。禅寺では、修行僧に与えられるスペースは「立って半畳、寝て一畳」なのだそうだが、それに比べれば病室といえども贅沢な場所だ。そう思って、物心ついてから初めての入院生活を神妙に過ごすことにしよう。
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 16時に山仲間のH氏が(まだ手術も始まっていないのに)早くもお見舞いに現れ、山の本を一冊貸してくれた。そのすぐ後には家内もやって来て、17時から、明日の手術の内容とそれに伴うリスクについて、担当の先生からの説明を二人で聞くことになった。今はインフォームド・コンセントの時代だから、先生は手術の内容を実に懇切丁寧に説明して下さった。

 十二指腸は臓器の壁が非常に薄いので、病変部分の切除には特殊な方法が必要であり、うまく行かないと最悪の場合は穴が開いて重篤な合併症を起こすことがあるという。手術中に万一そうした事態が発生した場合の体制も整えた上で手術を行う、そのために、この病院の腫瘍センター、麻酔科、消化器外科がチームを組んでの対応になるそうだ。

 手術の説明が終わり、家内と私が病棟のエレベーター・ホールに戻ると、窓の外はちょうど日没が始まるところだった。朝からきれいに見えていた富士山と丹沢の山々が今はもうシルエットになって、背後の空が赤く染め上っている。そして、家内と二人でじっと見つめていた大きな太陽は、そのシルエットの向こうに見る見る沈んでいく。奇しくもその場所は、先ほどお見舞いに来てくれたH氏らと先週の土曜日に登った西丹沢の檜洞丸から間近に眺めた大室山の、少し右あたりだった。
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 太陽がすっかり沈み終わった後、私と目が合った家内はニコッと笑顔を作った。私にはわかっている。それは、彼女が心の中に不安を抱えている時に、それを見せまいとする精一杯の笑顔なのだ。昔からそうだった。手術に伴うリスクの説明を受けて、やはり心配をかけてしまったかな。それでも、こうなった以上は先生を信じて体を預けるしかない。私もぎこちない笑顔を家内に返した。

 西の空はいつの間にか今日最後の輝きを終えて色を失い、林立する高層ビルの窓に無数の灯りが輝く都心の夜景が、もう始まっていた。
(To be continued)


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