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奥州二都物語 - その2 平泉 [自分史]


 11月8日(日)の朝、角館駅前のホテルで目が覚めると、窓の外に見えるJR田沢湖線のレールが雨に濡れていた。雨といっても、傘が要るか要らないかという程度のごく弱いものだ。朝食を済ませたら列車に乗って、今日はこれから東北地方を南下するのだが、向こうの天気はどうなるだろうか。
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07:57 角館 → 08:48 盛岡(秋田新幹線 こまち10号)
08:57 盛岡 → 09:16 北上(東北新幹線 はやて116号)
09:34 北上 → 10:14 平泉(東北本線普通列車)

 定刻にやって来た「こまち10号」は私たちを含む角館からの乗客でほぼ満席となり、霧雨に煙る山の紅葉の中を一路盛岡へ。それとは対照的に、約9分の接続で盛岡から乗った「はやて116号」はガラガラだった。盛岡・仙台間が「各駅停車」となるこの列車は、これから停まる一駅一駅で乗客を集めていくことになるのだろう。

 盛岡からほんの20分ほどで北上に到着。ここで在来線に乗り換えになるのだが、ただでさえ閑散としたホームが雨の朝を迎えて冷え冷えとしていた。向かいの下り線ホームは、盛岡方の先端に行き止まり式の短いホームが設けられている。いわゆる切欠きホームと呼ばれるものだ。その先端にひっそりと停まっているのは、北上線のたった一両の軽量キハ。「0番線」という表示が、ちょっと泣ける。
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 やがて、上り線ホームに二両連結の一関行き普通列車がやって来た。昨日から旅に出て秋田県の角館で武家屋敷街の紅葉を楽しんで来た家内と私は、これからこの電車に40分ほど揺られて平泉へ。もちろんお目当ては世界遺産の毛越寺中尊寺である。

 盛岡からも既にそうだったのだが、この区間は鉄道が北上川と着かず離れず南北に走っている。北上川は、岩手山の麓から宮城県の石巻まで流路延長249kmの誠に悠々たる大河で、東北の歴史もこの流域の支配がキーポイントになってきた。在来線の電車に揺られながら私が考えていたのは、11世紀の後半に東北地方で起きた二つの戦役のことだった。

 平安時代というと、京都の摂関政治か源平の争いばかりにフォーカスが当たることが多く、北に向かって奥深い東北地方の統治が大きな課題であったことについては、私たちはあまりイメージが持てずにいる。他の地域は古代から今の県と同じような大きさの国に分けられていたが、東北は「陸奥国」と「出羽国」だけの実に大雑把なものである。

 そして、畿内の中央政権と蝦夷との戦いの結果、中央政権に従うことになって集団で強制移住をさせられた人々が「俘囚」と呼ばれたこと、転地先で自立できるようになるまで、彼らは中央政権から食糧を与えられ、租税も免除されていたことなどは、あまり認識していないことが多いのではないだろうか。後にこの地域で大きな力を持ち、殆ど独立国のようにふるまっていた安倍氏や出羽の清原氏などの出自が、こうした俘囚たちの長であったことも。

 この安倍氏が安倍頼良(後に頼時)の時代に現在の岩手県のほぼ全域を支配するようになり、朝廷に対する貢租を怠ったことから、11世紀の中頃から朝廷側と戦争状態に入った。一度は撃退された朝廷側が河内源氏の源頼義を陸奥守に起用したことで形勢は逆転。その後の紆余曲折を経て、最後は出羽の清原氏が頼義に加勢したことで勝敗が決し、安倍氏は滅亡。これが前九年の役(1051~62年)である。
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 この時に安倍頼時と共に朝廷軍と戦って最後は惨殺された藤原経清には、安倍頼時の娘との間に子がいた。それが清衡だった。ところがこの経清の妻は、前九年の役が終わると勝者である清原武則の子・武貞の妻となり、清衡も一緒に引き取られる。しかもこの妻は武貞の子を産んだ。それが家衡で、清衡とは異父兄弟になる。更には、清原武貞には嫡子の真衡がいた。これは清衡・家衡とは異母兄弟になるのだから、話は更にややこしい。

 前九年の役に勝利し安倍氏に代わって陸奥の六郡を与えられた清原氏だったが、こうした三人の複雑極まる血筋の関係が深刻な内紛を招くことになった。これに源頼義の次男・義家が介入して起きた戦乱の総称が後三年の役(1083~87年)である。この結果清原氏は滅び、清衡は元の藤原姓を名乗って新たな奥州の覇者となった。これが奥州藤原氏の始まりで、基衡・秀衡までの三代にわたって平泉を本拠地に華麗なる文化を展開させることになる。

 因みに、「役(えき)」という言葉は、本来は対外戦争にだけ用いられる言葉なのだという。なるほど、言われてみれば、日本史上に出て来る「文永・弘安の役」、「文禄・慶長の役」、「征台の役」など、相手はみな外国である。とすれば、「前九年の役」・「後三年の役」と呼ぶのは、安倍氏や清原氏を異人も同然と考えていたからなのだろうか。とすれば、彼らの支配下にあった東北地方は(朝廷側から見ても)相当な独立色があったということなのだろう。

 平泉の駅に着いて、西側に続く一本道を毛越寺に向かって歩く。両側の建物の景観は綺麗に統一されていて、さすがは世界遺産のある町だ。
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 程なく毛越寺の入口に到着。朝から雨模様だったのが、このあたりから傘をささずに済むほどになり、家内と私はその広い浄土式庭園をゆっくりと一周した。昨日の角館に負けず劣らず、園内は紅葉が真っ盛り。見頃はあと1~2週間といったところだろうか。何ともいいタイミングで訪れることが出来たものだ。
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 毛越寺は、この後に訪れる中尊寺と共に慈覚大師・円仁による850年の開山とされているが、それはきっと円仁さんの数ある伝説の一つなのではないだろうか。実質的には、中尊寺は清衡の時代に創立、そして毛越寺は大火で消失・荒廃した寺が基衡・秀衡の時代に復興されて壮大な伽藍が建設されたそうである。
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 但し、毛越寺はその後も度重なる火災によって建物は焼失。今に至るまで遺構だけが残されて来た。それが「仏国土を表す建築・庭園及び考古学的遺構群」として世界遺産に登録されたのは、考えてみれば凄いことである。
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 広い庭園を一周した後、私たちは巡回バスに乗って中尊寺へ。5分も乗っていれば着いてしまう。但し、毛越寺と違って中尊寺はその境内が文字通り一つの山のようだ。入口から尾根の上につけられた道をかなり登っていくことになった。
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 着物姿で草履を履いている家内のペースに合わせて、ゆっくりと「山道」を歩く。人の手によって造営された毛越寺の浄土式庭園とは違って、中尊寺の境内は山そのものだから、紅葉の味わいも自ずと異なる。こちらの方が、自然の中に寺が埋もれている、と言えばいいだろうか。
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 それなりに登りつめた所に本堂があり、更に進んでいくといよいよ金色堂が待っている。ここは内部の写真撮影が出来ないから、実物と向き合ってその姿を自分の目に焼きつける他はないのだが、堂内安置の贅の限りを尽くした仏像は、とてもこの世のものとは思えない。家内も私も、ただ呆然とそれを見つめていた。
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 中尊寺は天台宗の寺だが、ご本尊は阿弥陀如来で、私の印象からすると何だか浄土教の寺に来ているかのようだ。そして、途方もない財力があったとはいえ清衡がこのような仏像を残した背景には、その複雑な出自が原因で子供の頃から兄弟や親族との争いが続き、自らの妻子もそのために失ったこと、戦乱で多くの人々の命を奪ったことなどが負い目としてあり、寺院の造営や写経などによって死後に極楽浄土を求める気持ちがあったとされる。
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 それにしても、これほどの豪華絢爛たる文化が11~12世紀に奥州藤原氏によってこの地に残された、そのことを可能にしたものは、何といってもその時代の陸奥(みちのく)の豊かさだったのだろう。東北と聞くと冷害や飢饉を連想してしまうのは、考えてみれば稲作中心の考え方で、金を産出し、森林資源が豊富で動物の毛皮も手に入る東北地方は、古代に遡ってみれば豊かな土地だったのではないだろうか。だからこそ、俘囚の長たる安倍氏や清原氏が現れ、朝廷の支配に対抗して独立を保ちたかったのではないだろうか。初めて平泉を訪れてみて、ふとそんなことが頭の中に浮かんできた。

 昨日の角館に続いて、今日の平泉も目的地を絞ってゆっくりと歩いて回る旅になった。家内もそんなスタイルの旅に賛同してくれたのは何よりだ。これからも、ちょっとした時間を見つけて私たちなりの「大人の休日」を楽しんでいけたらと思う。

 中尊寺の前から再び巡回バスに乗り、平泉駅へ。予定通り14:26発の普通列車で一関に出て、新幹線の「やまびこ50号」で仙台へ。そして15:30に仙台を発車した「はやぶさ22号」が利根川を渡る頃には、早くも窓の外に夕闇が迫り始めていた。

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