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再会 (2) [自分史]


 北陸新幹線の富山駅ホームから階下に降りて南口から外に出ると、駅ビルも駅前広場も35年前からは一変していて驚いた。何ともスマートな景観になったものである。
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 市内を走る路面電車は、昔は駅前広場の片隅に電停があって駅ビルからは結構離れていたのだが、今は駅ビルを南北に縦断するような形に線路が延伸され、新幹線や在来線からの乗り換えがしやすいようになっている。しかも、市の中心部を周回運転する「環状線」が新設されたのだ。セントラムという愛称を付けられた欧州スタイルの路面電車に家内と私は早速乗り込み、街中へと向かう。ほどなく、トラムは富山城址公園の南西側を回りこむようにして、国際会議場前の電停に到着。私たちはその近くに予約しておいたホテルに手荷物を預け、直ぐに昼食の場所へと出かけることにした。
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 今から30年以上も前、大学を卒業して社会に出たばかりの私が最初の任地としてこの富山で過ごしたのは、1981年の4月から84年の2月まで、3年にちょっと欠ける期間であった。それから東京に戻り、2年後の5月に結婚。だから、家内は私の富山生活を知らない。当時の富山支店のメンバーの中から8組の夫妻が懐かしい富山に集まろうという今回の企画。皆が集合する夕方までの間、家内には富山の街中を見てもらうことにしよう。

富山の寿司

 目当てにしていた寿司屋は、そのホテルからは目と鼻の距離だ。総曲輪という昔の繁華街の一角である。今から35年前に私が新人として富山に赴任し、3年足らずの生活をエンジョイしていた間、同僚たちとこの店にはよく足を運んだものだ。その当時から店内は禁酒・禁煙。純粋に寿司を楽しむ人々だけが行列を作る店だった。

 11:30の開店なのだが、11:25に行ってみると既にカウンターは埋まり、更に順番待ちの4組ほどが背後の腰掛に座っていた。私たちはそこに辛うじて座れたのだが、直後には次の客が現れ、そこから先は立ったまま待たねばならない。危ないところだった。

 美味しいお店では順番を待つのも楽しみの一つ。東京の寿司屋ではお目にかかれないようなお品書きの数々を眺めながら待つこと45分。ようやくカウンターに案内され、私たちは「富山の味握り」というコースに味噌汁を付けてもらうことにした。

 シマアジ、イカ、焼きアナゴ、バイ貝、タイ、甘エビ、マグロ、白エビ、カニ・・・。寒流と暖流が流れ込み、水深が深く、日本海に生息する魚介類800種のうちの500種が棲むという富山湾ならではの素晴らしい食材の数々。富山にいた間は毎日のようにこんな美食に囲まれていたのだから、今から思えば贅沢な独身時代だったというべきだろう。日頃の罪滅ぼしも兼ねて、この店にはいつか家内を連れて来たいと思っていた。

 私たちのような遠来の観光客だけでなく、カウンター越しのやりとりを見ていると地元の常連さんも多いようだ。握る方もいただく方も寿司に集中しているから、スマホで写真を撮ったりするような人は皆無で、お店の中の良い意味での緊張感が素晴らしい。そんなお店に敬意を表して、外観だけを写真に残しておくことにしよう。
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富山の売薬

 美味しい寿司を堪能した後、総曲輪のアーケードを抜けて堤町通りへ。広い道路を隔てて北陸銀行本店の向かいに老舗の薬屋さんがある。その白壁土蔵造りのレトロな建物は改修中で建築資材に覆われていたのは残念だったが、中は普通に営業中である。富山の代表的な胃腸薬「越中反魂丹」のメーカーとしても有名な老舗だ。
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 江戸時代の初期から財政難に苦しんでいた富山藩が、収入を得るための産業振興の一環として奨励されたという製薬業。家庭用の置き薬を背に全国を回った「越中富山の薬売り」の姿と、まず先に使ってもらい、後からお代をいただくという「先用後利」のシステムが有名だが、それを可能にしたのが、製薬業が実は利益率の極めて高いビジネスであったことなのだそうだ。(確かに昔も薬の製造原価は不透明なところがあったのだろう。)

 店頭に並ぶ昔懐かしいデザインの薬の数々。これが昔の薬のコレクションではなくて今も商品として売っている物だというのは驚きだ。大手チェーンのドラッグストアなどではついぞお目にかかったことがない。どこかユーモラスなパッケージを眺めていると、それだけで気分が少し楽になりそうである。
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呉羽山公園

 薬屋さんを見た後は、タクシーで富山市西部の呉羽山公園へ。そこは小高い丘で、富山の市街を眺め下ろすことができる。また、春は桜の名所だ。よく晴れていれば彼方に立山や剱岳をはじめとする北アルプス北部の山々が屏風のように並ぶ。そんな場所なのだが、梅雨の晴れ間とはいえ、今日はだいぶ気温が上がったから、昼過ぎともなれば高い山々は雲の中である。
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 30年以上前にここから眺めた時と比べると、当時はなかった高層ビルが幾つか見えることに加えて、北陸新幹線の高架がやはり目新しい。

 展望台の先をもう少し歩いていくと、長慶寺という寺の境内へと下りていく階段があり、五百羅漢と呼ばれる石仏群を間近に見ることができる。ここは独特の趣がある静かな場所で、私は好きだった。雪が降り積もった時期に来たこともあったのだが、今日のように鮮やかな新緑に囲まれた時期もなかなかいい。あれから30年以上が経って、今はこうして家内と二人でこの場所を歩いていることが、何だかとても不思議に思えて来る。
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岩瀬の町並

 長慶寺の五百羅漢から富山民族民芸村に出て、幾つかの展示物を見ているうちに、30分に1本の路線バスがやって来た。それに乗ってしまえば富山駅までは10分ほどである。だいぶ暑くなったので駅で冷たい飲み物を買い求め、私たちは駅の北口からポートラムと呼ばれる路面電車で岩瀬に向かった。かつて国鉄の富山港線というローカル線だったのを路面電車用の軌道に改編し、駅の数とダイヤを増やし、欧州スタイルの車両を投入した結果、利便性が増えたので利用者が増加し、地域の足として復活している。今や「富山のライトレール」といえば、路面電車が復権した代表的な成功例だ。

 富山駅北口から20分ほどで東岩瀬に到着。国鉄時代のホームと駅舎が残されていて、ちょっと懐かしい雰囲気だ。
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 駅から岩瀬地区の街中へと入っていくと、旧北国街道だった道路の両側に木造の昔ながらの建物が並んでいる。岩瀬は江戸時代の初期から北前船が出入りする港町として栄え、街道に廻船問屋が軒を並べていた町である。現在残っている家屋の多くは明治時代に建てられたものだそうだが、今も営業している酒屋も銀行もその景観にマッチした造りになっているのが素晴らしい。(天気の良い土曜日の午後なのに人通りが殆どないのは残念だったが。)
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(「満寿泉」で有名な桝田酒造店)
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(銀行の店舗)

 そうした廻船問屋の中で栄華を極めた森家の屋敷は国指定の重要文化財になっていて、中を見学させてもらえる。30年以上前に私が富山にいた頃にはついぞ訪れたことなどなかったのだが、今はこうして家内と二人で大人の旅をするようになったか・・・。
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(廻船問屋森家)
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 森家の屋敷のすぐ近くには富山港展望台という素朴な施設があって、地上20mほどの高さから富山港一帯を眺めることができる。6月上旬だから夕方5時に近いといっても陽はまだ高く、海の向こうに能登半島の付け根の部分が見えていた。
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そして、再会

 展望台を下りてもう少しだけ岩瀬の街中を歩くと、時計は5時を回っている。スマホのGoogle Mapで現在地を確認しながら、私たちは今日最後の目的地に向かった。1911(明治44)年創業のこの街一番の老舗の料亭である。その当時から残る建物は重厚で、北前船の船底の板を使ったという看板が歴史を感じさせる。
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 家内と私がその看板を眺めていたまさにその時、一台のタクシーが店の前に停まり、中から見覚えのある二組のご夫婦が降りてきた。

 「どうも、しばらくでした!」
 「いやあ、お久しぶり!」
 「車の中から見ていてすぐにわかりましたよ。本当にご無沙汰してました!」

 かつて私の上司だったKさんは13年先輩だから既に喜寿を超えておられるのだが、同乗されていた4年先輩のIさん共々、本当にお変わりがない。考えてみれば、このお二人にお目にかかるのも20年ぶり以上のことだ。奥様方とは、もちろん富山を卒業して以来の再会である。

 挨拶もそこそこに皆で料亭の中に入り、奥の部屋に通されると、既に二組の先輩夫婦が来ておられた。ここでも同じように肩を叩いて再会を喜び合う。残りの三組も三々五々到着して、定刻の5時半を待たずに全員が揃った。皆、今日のこの場を楽しみにしていたのだ。テーブルには、今が最盛期の富山湾の白エビが運ばれてきた。
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 それから始まった「富山会」。お会いする方々の殆どにこれだけ長い間ご無沙汰をしていると、何から話を始めて良いのやら普通なら迷うところだが、お互いに富山に来ていることも手伝ってか、私たちはあっという間に30数年前の昔に舞い戻り、色々な話に一気に花を咲かせた。8組の夫妻の内の2組は富山の職場の中で成立したカップルだったから、奥様方のことも私はよく知っている。向こうもそうだから、私がもうすっかり忘れてしまったことなども話題にのぼる。初めて聞く私の若い頃の「武勇伝」に、家内は目を丸くしていた・・・。

 当時の私たちの会社は、元々が上下の分け隔ての少ないリベラルな雰囲気を伝統的に持っていた。事業の規模に比して随分と少ない人数でやっていたから、形式ばったことをしていたら仕事が回らない。社内の主だった人の顔と名前は知っているのが当たり前だったし、相手が役員だろうが部長だろうが役職名では呼ばず、「○○さん」で済ませていた。

 それに加えて、仕事を通じて後進を育てるというカルチャーが社内には明確にあった。私たちのような駆け出しは叱られながら仕事の進め方を覚え、先輩方は忙しい中も時間を割いて私たちと向き合ってくれた。そんなことを通じて、仕事の能力の面でも人格・教養の面でも尊敬できる先輩方が大勢おられたのだ。今から思えば、本当に恵まれた職場だった。

 そんなカルチャーの中で、今から30数年前の一時期を富山の店で一緒に過ごしたメンバー8組が、それぞれに夫婦仲良く富山に集まって、再会を心から喜び合うことが出来たのだ。社会人としての自分の人生の中で、これほどの幸せはないだろう。
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 岩瀬の料亭から富山駅前のスポーツ・バーに場所を変えて、「富山会」は夜更けまで続くことになった。

(To be continued)

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