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変わらずにいること [自分史]


 1972(昭和47)年3月5日というと、今から44年と9ヶ月も昔のことになる。それは穏やかによく晴れた日曜日だった。

 当時の天気図をネット上で調べてみると、この日は冬型の気圧配置が緩み、中国の江南地方に中心を持つ移動性高気圧から東に気圧の尾根が延びていて、日本列島では等圧線の間隔が広くなっている。暦の上ではちょうど啓蟄にあたる日だったのだが、まさにその名の通りの天気となった。
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(1972年3月5日午前9時の天気図)

 その日、あと三週間足らずで中学校を卒業という年頃だった私は、級友のI君と二人で信州の伊那谷を訪れていた。今、手元にあるその年の国鉄時刻表を見る限り、当時の私たちは前夜の23時45分に新宿を出る急行アルプス11号に乗ったはずである。遠出をするなら夜行列車に乗るのが当たり前の時代。中学生の二人が車内でどれほど眠れたのかはともかく、列車は午前4時33分に伊那谷への入口にあたる辰野に到着し、そこで直ぐに接続する飯田線の普通列車に乗り換えて、朝の5時半過ぎに田切という小さな駅に降り立った。

 鉄道少年であった私たち二人の目的は、飯田線を走る旧型国電の写真を撮りに行くことだった。当時、東京や大阪では国電といえば101系や103系が全盛の時代だったが、それらに取って代わられたお古の電車(戦前型或いは戦後改良型の電車)が御殿場線や身延線、飯田線、大糸線などで余生を過ごしていた。昭和46年に蒸気機関車が国鉄全線から姿を消した後、鉄道マニアの間で希少価値があったのは、こうしたオールドタイマーの電車だったのだ。

 早朝の田切駅。そこで降りたのはもちろん私たちだけだった。鉄道と並行する道路を北方向に歩き、与田切川に架かる橋の手前で河原に降りると、飯田線の鉄橋の背後に雪を抱いた中央アルプスの山々が聳えている。そこには朝日が当たっているが、鉄橋はまだ日陰の中だ。そこへ上り列車がやって来た。横須賀線と同じ「スカ色」と呼ばれるツートンカラーが施された旧型国電。先頭はクモハ54形だ。
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(1972年3月5日撮影)

 私たちがカメラを構えていた河原から眺める飯田線の線路。この区間は「田切のオメガカーブ」として鉄道ファンには知られていた。赤い鉄橋と中央アルプスという組み合わせが絵になることに加えて、大きなカーブで列車が減速するために写真が撮りやすかったのである。
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(赤丸部分が「田切のオメガカーブ」。背後は中央アルプス)

 やがてディーゼル急行「こまがね」がやって来る頃には、伊那谷の中にも朝の光が当たり始めた。中央アルプスの空木岳(うつぎだけ、2864m)や南駒ケ岳(2841m)の白いピークが眩しい。
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 東京からはるばる飯田線へやって来た私たちの一番のお目当ては、「流電」と呼ばれた52系電車だった。戦前の一時期に世界的な流行を見せた流線型スタイルの電車で、全盛期は京阪神地区を中心に活躍していたものだ。先頭車のスタイルが実に優美で、古き良き時代を感じさせる。当時の私たちが中学生ながらこのようにレトロな物に魅力を感じていたのは、なぜなのだろう。
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 東海道本線の豊橋と中央本線の辰野を結ぶ飯田線は、明治時代の後半から昭和の初期にかけて建設された路線で、四つの私鉄(南から順に豊川鉄道、鳳来寺鉄道、三信鉄道、伊那電気軌道(後に伊那電気鉄道))から成っていたものが昭和18年に戦時国有化されたものだ。

 こういう風に私鉄の、それも最初から電気鉄道としてスタートした路線であったことから、地方路線であるわりには駅の数が多い。そして天竜川の渓谷が最も険しくなる天竜峡以南の地域では、その昔は並行する道路の事情が極めて悪かったこともあり、荷物や郵便を運ぶ鉄道車両が活躍していた。更には、私鉄時代の電気機関車が戦時国有化後も国有鉄道の車両として車両番号を割り振られ、戦後も活躍を続けていたのだ。それやこれやで飯田線の姿には何かと特色があり、ここでしか見られない鉄道車両も多かったのである。
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(単行運転の荷物車 クモニ83の100番代)

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(伊那電気鉄道から国鉄に引き継がれた電気機関車ED26)

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(まるで鉄道模型のジオラマのような貨物列車)

 中央本線の岡谷・塩尻間は、私たちが飯田線を訪れた11年後の1983(昭和58)年に塩嶺トンネルを抜ける短縮ルートが開通したために、岡谷から辰野を回って塩尻へ行く旧ルートは支線の位置付けになり、列車の運行本数も格段に少なくなった。その影響もあってか、飯田線北部の列車ダイヤは、今では平日の朝夕を除いて一時間に一本だが、私たちが訪れた頃には、日中にも一時間に少なくとも二本の電車が上下それぞれに走っていたから、電車の撮影にも退屈することはなかった。というよりも、あまりにも良い天気なので、列車を待つ間は中央アルプスと南アルプスの山々を、それらが何という名前の山なのかは知らないながらも、私は飽きずに眺めていたのである。
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(踏切の向こうにも高い山が見えていた)

 その中でも特に、東の方角に遠く高く聳えていた白銀の峰に強い印象を受けた私は、そのピークに向けてカメラを構えていた。南アルプスは伊那谷から眺めると朝のうちは逆光になるのだが、日が回ると次第に山が立体的に見えてくる。それにしても、望遠レンズを通して一眼レフのファインダーに写し出されたその山は、実に堂々たる姿だった。
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 その時にこの山の写真を撮ったことを、私はその後すっかり忘れていた。旧型国電の写真を撮ることが旅の目的だったのだから無理もない。そして飯田線を訪れた翌月の1972(昭和47)年4月、私は高校生になり、クラブ活動には山岳部を選ぶことになった。

 高校山岳部ながら積雪期にもしっかりと合宿を張る伝統があり、その年の暮には北八ヶ岳へ。そして翌年3月の春休み期間中にはピッケルを構えて南アルプスの仙丈ヶ岳(3033m)に登頂することになった。もちろん雪はまだたっぷりある時期で、3千メートル級の山だから吹雪けば厳しい。だがベースキャンプから頂上アタックを試みた日は幸いにして穏やかな天候に恵まれ、私たちは無事に登頂を果たすことが出来た。それは、今もなお鮮明な記憶として残る、高校一年生の私にとっては宝物のような体験であった。

 それから何年も時が過ぎた或る日、飯田線で撮影した写真を綴じたアルバムを再び手にした時、私は思わず声を上げた。数々の電車の写真と共に収められていた山の写真は、何とその仙丈ヶ岳だったのだ。

 あの時の私は、それが仙丈ヶ岳という名前の山であることも、ちょうど1年後には自分がその頂上に立つことになることも何も知らぬまま、ただその姿に惹かれてカメラを向けていたのだった。それは何かの巡り合わせというよりも、最初からそういう運命だったのだと考えるより他はない。

 今年の夏、或る鉄道模型のメーカーから新発売となったNゲージの車両を、インターネット経由で私は購入した。それは44年前のあの時に飯田線で出会った、クモハ54形を含む二両編成の旧型国電である。あれから長い年月が流れたが、飯田線を走る旧型国電に心を躍らせ、そして背後に聳える白銀の山々を見つめていた私の本質的なところは、還暦を迎えた今も殆ど変わっていないのではないかと、自分でも思う。
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 昨日の12月3日(土)、私が幹事になって、中学のクラス会を久しぶりに開いた。今年の4月から来年3月までの間、皆がそれぞれに還暦を迎える記念の年である。男女合わせて41名の同級生。残念ながら既に二人の物故者が出ているが、残る39名の内21名が集まってくれた。海外や地方在住者が何人かいることを考えれば、よく集まってくれたといっていいだろう。

 あの時に一緒に飯田線まで出かけたI君もその一人だ。彼は今も健康そのもので、得意なテニスやゴルフを熱心に続けている。私も山登りを何とか続けていて、それだけでもお互いに幸せなことである。加えてこの日は、中学卒業以来の再会という同級生も参加してくれたりして、夜遅くまで賑やかなことになった。

 みんな同級生だから、人生の時間軸をお互いに平行移動している訳で、その点では還暦になった今も、「あいつはちっとも変わってないなあ」と思うことが多い。その「変わっていない」部分をそれぞれに大切にしながら、同級生たちとはこれからも、お互いに元気を貰い合う関係を続けて行きたいと思う。

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 ♪ 大事なのは 変わってくこと 変わらずにいること ♪

 そういえば、こんな歌があったな。

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