SSブログ

4ヶ月のブランク (1) [自分史]


 2017年3月から6月までの4ヶ月間、このブログを更新することが出来なかった。

 大きな理由は、4月の末に膵臓の一部を切除する開腹手術を受けたことだった。それは以前から解っていたことではなく、4月に入ってから病変が発覚したのもので、以降は検査・入院・手術の日程が大急ぎで決まって行った。その展開の速さは今から振り返っても殆ど信じ難いほどのことだが、ともかくも5時間近くを要する手術を受けて延べ1ヶ月弱も入院をしたというのは、私の生涯で初めてのことである。

 この病気をしたことで、私のこれまでの人生と今後の人生とが滑らかに繋がって行くのか、そして後者がいつまで続くことになるのかは、今の時点ではまだわからない。いや、寧ろ最悪の事態をも想定しておく必要があるのかもしれないのだが、向こう半年ぐらいの経過を見なければまだ何とも言えず、今ジタバタしたところで何の意味もない。

 ともかく、まがりなりにも自分のブログと向き合う気力を取り戻した今、この4ヶ月間の空白を何らかの形で埋めなければならない。この間に思い浮かんだことを書き連ねればキリがないが、個人の感情に走ることはなるべく避けて、事実のみを極力淡々と記録しておくことにしたい。

2017年3月
 会社の仕事は例年になく忙しさを増していた。それは、「分刻みのスケジュールをこなす」という類の忙しさではなく、会社経営全般の今後の方向性を深掘りし、方針を打ち出していくためにあれこれと考え、アウトプットを産み出して社内コンセンサスを形成して行かねばならない、そういう意味での忙しさだった。

 東北の震災が起きた2011年以降、私の会社にとっては製品市場の縮小・低迷が続き、逆風の時期を過ごして来たのだが、昨年(2016年)の夏頃から潮目が俄かに一変し、今度は逆に従来の生産能力では顧客からの注文に応じきれないほどのタイトな状況が続くようになった。苦しい時期に歯を食いしばって開発し投入した高品質・高機能の製品が漸く市場に認められたこともあるのだが、やはり中国をはじめとする新興国経済の質的な向上によって、日本の限られたプレーヤーにしか作れない高品質・高機能の素材が今まで以上に求められるようになったことが底流にあるようだ。更には、いわゆるIoT(物のインターネット)の時代がこれからいよいよ幕を開けると、我々が日々生産している素材の用途が今後飛躍的に拡大していく可能性がある。

 そんな訳で、週末には会社の幹部を集め、我社が近未来を見据えて取り組むべきことについて幅広い議論を行い、社長と共に海外も回って将来の生産設備増強のフィージビリティを考えた。忙しかったが、これほどのポジティブな環境変化は長い社会人生活の中でもそう体験出来ることではない。それに没頭している間、自分の私生活におけるブログの更新などは、当然のことながら私の頭の中にはなかった。
4-months-blank-01.jpg
(ドイツ・デュッセルドルフ空港)

 加えて、これは会社生活とは全く異なる次元の話ではあるのだが、この4年間務めて来た自宅マンションの管理組合の副理事長の仕事も、この3月に佳境を迎えていた。

 世の中ではどこも同じなのだろうが、マンション管理組合の理事の仕事は基本的に区分所有者の間での輪番である。各人の経験や能力とは無関係に順番が回ってくるお役目だから、最低限のことをして、まずは無難に任期が務まればいいということになりやすい。だから、各年度の理事会の運営に大きな変化は起きにくいものだ。

 マンションも新しいうちはそれでもいいのかもしれないが、築何十年も経って建物・設備の老朽化が進んだマンションとなると、そうもいかない。建物の外観だけでなく、内部の各種配管にも劣化が現れ、水漏れ事故などを起こしがちだ。それは、人間が歳をとって循環器系の病気になりやすいのと同じようなものである。4年前、私に理事の役目が回って来たのは、まさにそうした状況の中で、次回のマンション大規模改修の時期と内容を待ったなしで検討せざるを得ないタイミングであった。

 理事を引き受けた時、自分も無難に2年の任期を過ごせばいいやという思いがない訳ではなかった。だが、実際に理事会に出てみると、意見は色々出るけれど、それをまとめ、問題点を整理し、具体的なアクションプランへと組み立てられる人は非常に限られていた。そもそも、或る事案について、皆の理解を共通のものにするためのアウトプットを作れる人がいないのである。メンバーの大半は私よりもずっと年上の、既に仕事をリタイアした人たちだから仕方がないのだが、事態を静観するだけでは何も進まない。結局それらを私が一手に引き受けることになり、副理事長に祀り上げられて2期4年を務めてしまった。そして、その集大成のような仕事がこの3月に山場を迎え、平日の夜や土日に多くの時間を費やすことになった。

 本業の仕事とマンション管理組合の仕事という、まさに二足の草鞋。しかも、自分が動かなければ何も進まない。この何年か、そのことに我ながらストレスを溜め続けていたことは確かだった。
4-months-blank-002.jpg

2017年4月5日(水)
 以前から予約を入れていたのだが、高校時代の同級生S君が院長を務めている消化器内科クリニックで、朝から胃の内視鏡検査を受けた。S君には以前から何度もお世話になっていたのだが、今回は本当に久しぶりで、前回から3年弱が経過していた。検査を受けるのがついつい面倒だった、という言い訳しかないのだが。

 胃の検査そのものは特に問題もなかったのだが、その直前に受けた超音波検査の結果、膵臓の真ん中あたりに一点黒い影があるという。念のためということでS君がCT検査を手配してくれたので、その日の午後に別の場所で同検査を受けることになった。

4月7日(金)
 昼休みにS君から携帯電話に連絡があった。「前々日のCT検査の結果、膵臓の「黒い影」は良くないので早急に入院して手術を受ける必要あり。」とのこと。ついては翌8日(土)の夕方にMRI検査を受け、翌週の12日(水)にS君のクリニックで大腸の内視鏡検査を受けた上で所見の説明を受けることになった。

 彼からそういう内容の連絡を受けたこの日は、夕方から会社のキャンティーンで新人歓迎会を兼ねた花見の宴が催され、立場上、私は夜遅くにお開きになるまでその場にいたのだが、いつになく酔いがひどかった覚えがある。

4月12日(水)
 休暇を取り、S君のクリニックで朝から大腸検査。夕方近くになってS君から所見の説明が始まる。その時刻までに家内も来てくれて、二人で説明を聞いた。

 問題の膵臓の直径2cm前後の「黒い影」は腫瘍の疑いありとのこと。一般に膵臓癌は発見が遅く、手遅れで手術も出来ないケースが多いのだが、私の場合はそれがもっと早い段階のものと見られるとのこと。このままあと3ヶ月も放置すれば手遅れになるので、早急に手術を受ける必要があるそうで、何とS君は東京の湾岸地域にある専門病院(「A病院」としておこう)にも既に連絡を回してくれて、13日(木)の午後に部長先生の診察の時間を既に予約してくれていたのだった。家内と私はS君の厚意に深く感謝しつつ、ともかくもここから先のことは医師の指示に従い、治療を最優先にして行こうという思いを互いに確認し合うことになった。

4月13日(木)
 午後、初めてA病院へ行き、部長先生の診察を受ける。CTやMRIの画像を交えての説明はS君が話してくれた内容と一致しており、膵臓癌としてはまだ比較的早い段階なので、開腹手術により膵臓の約半分(尾部)を切除し、併せて転移の可能性のある周辺のリンパ節や胆嚢・脾臓・片方の副腎も切除。約3週間の入院が必要で、術後2ヶ月程度経ってから抗がん剤の服用を始めるとのことだった。その後、18日(火)に再びA病院で入院に関するガイダンスがあり、23日(日)の入院、25日(火)の手術という日程が決められた。(知人の話では、こんなスピード感をもってA病院で手術を受けられるなどということは、普通だったらまずあり得ないとのこと。素早く手配を進めてくれた旧友S君に改めて感謝である。)
4-months-blank-03.jpg

4月23日(日)
 昼前にA病院に入院。10階、4人部屋の窓側のベッドで、東京湾の眺めが素晴らしい。すぐ近くの高架を新交通システム「ゆりかもめ」が走り、彼方では羽田を次々と離発着する航空機の様子を眺めることが出来る。午後には山仲間のH氏が早速お見舞いに来てくれて、沢山の文庫本を置いて行ってくれた。

4月25日(火)
 家族三人は朝6時に家を出て病院に来てくれた。私は早朝から手術の準備があり、7時50分に手術室へ向かう。家族の見送りを受けて8時には手術台に乗っていた。それから暫くは全身麻酔の準備があったのだが、そこから先のことは一切の記憶がない。手術が予定通り5時間ほどで終わったということは後から知らされたことで、何時だか解らないが医師に揺り起こされた時には、開腹手術を受けた部分の鋭い痛みがあった。
その日は酸素マスク等を付けたままICU(集中治療室)で一晩を過ごす。暫くの間は家族の面会が許され、痛みに歯を食いしばる私の左手を家内と娘が握ってくれたことを覚えている。

4月26日(水)
 点滴による麻酔を続けつつも、まだ鋭い痛みは続いているのだが、この日の昼前にはICUから元の病室に戻された。寝てばかりでは良くないので、看護士に付き添われ、点滴の台を杖代わりにして病棟内の廊下を少しずつ歩く訓練が始まる。といっても、まだおっかなびっくりで僅かな距離しか歩けないのだが。

4月29日(土)
 A病院の病室で私は61回目の誕生日を迎えた。術後の回復が比較的順調とのことで、この日の朝、腹部に差し込まれていたドレン管が医師によって外された。点滴はまだ続いているが、ドレン管がなくなっただけでも廊下を歩くのはだいぶ楽になる。午後には家族三人が集まってくれて、病室でささやかな誕生日祝いの一時を過ごした。この頃から点滴に代えて病院食が段階的に始まったのだが、正直言って味が全く口に合わず、出された物が殆ど喉を通らないのには閉口した。栄養士さんもだいぶ細かく相談に乗ってくれたのではあるが・・・。

5月5日(金)
 昼間に2時間程度点滴を外して外出してもよいことになり、入院後初めて外の空気を吸ってみることにした。病院の北隣には芝生がよく整備された広い公園があり、バーベキューの施設などもあって、この連休中はなかなかの賑わいである。家内と娘と三人でその公園をゆっくり歩き、緑の木陰に座ってのんびりとした時間を過ごした。昔からアウトドアが好きだった私にとって、今は仕方がないこととはいえ、日がな病院の中で過ごす他はないというのは、やはり一つのストレスだ。早く自由に外を歩ける身になりたいものである。以後は毎日、13~15時ぐらいの時間帯は外出許可を取って、家内と二人で外を歩くことにした。
4-months-blank-04.jpg

5月10日(水)
 術後の経過が順調であったことから、この日をもって退院となることが前日に決まった。入院日から数えると17泊、手術日から数えると15泊。それでも、この手の手術を受けた者としては入院期間が短い方だそうである。もちろん、開腹をした部分にはまだ微妙な痛みがあり、術後3ヶ月ぐらいは重い荷物を持ったり走ったりすることは控えなければならない。また、手術の際に実は小腸も少しいじっているので、尾籠な話ながら下痢が当分は続く。そして、内臓を切除する際に色々な血管や神経を切っているため、味覚や食欲がおかしくなっている。時の経過と共にいずれ元に戻るのだそうだが、現時点では喉を通る(=食べたいと思う)食物が限られ、一回に食べられる分量も平常時の半分程度だ。そのため、手術前に比べて体重が10kgほど減った。何よりも筋肉が落ちてしまったことを実感する。

 ともかくも二週間強にわたってお世話になった病院を出て、昼前に自宅へ。会社には来週から出勤させてもらうことにして、今は色々なことのリハビリに努めることにしよう。

 その翌日、近くの植物園をゆっくりと歩きながら眺めた新緑が、何とも目に眩しかった。
4-months-blank-005.jpg
(To be continued)


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。