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花看半開 [季節]


 人間とは、幾つになっても肚が坐らないものだと、つくづく思うことがある。

 「花をみたとき、にっこりと笑う心。花の美しさに自然に微笑む心、この心こそ人間誰もが持っている仏心です。 (中略)
 花をみて笑える心は、食欲、色欲、財欲、名誉欲、睡眠欲などの強烈な人間五欲のほかの心です。その、ほかの心が花をみてにっこりと笑わせる。人間にとって一番純粋な心、清らかに澄んだ心が笑わせる。
 なんぼ花をみても銭もうけにはならん。デートの代わりにもならん、腹もふくれん。が、それでも花をみて笑える。どんな貧乏のどん底におっても花をみて笑える。こういうすばらしい心が人間には在るのです。それが人間の本心だと分かることが仏教じゃ。」
(『仏音』、高瀬 広居 著、朝日新聞社 より 臨済僧 山田無文の言葉)

 今から8年前、つまり2010年のちょうど今頃、桜の開花の時期に、かつて読んだことのある本のこんな一節を、このブログに引用したことがある。その引用部分は、仏教の入門書には必ず出て来る拈華微笑(ねんげみしょう)というエピソードについての一つの解釈の仕方なのだと個人的には理解しているのだが、そこで臨済僧が語っていることは決して難解なことではないと、その時の私は、少なくとも頭の中ではそう思っていた。五欲から解き放たれれば、人間はどんな時でも花をみて笑える。それはきっとそうなのだろうと。

 ところが、それから7年。つまり去年のちょうど今頃、私は「花をみて笑える心」どころか、花を眺める余裕すら失っていた。今から思い返しても、ああ花が綺麗だといって外を歩いた記憶が全くと言っていいほど無いのである。それどころではなかった。自分の生死にかかわることが自分の体の中で起きていた、そのことを知らされたのだった。

 「精密検査の結果、膵臓がんの疑いあり。一刻も早く手術を受けるべし。」

 高校時代の級友で内科医を務めているS君から、そんな所見があったのが昨年の4月12日。そしてその二週間後の4月25日には都内の専門病院で開腹手術を受けるという段取りが、あれよあれよという間に決まっていった。

 そこまで迅速な手配をしていただけたのは本当に得難いことで、S君をはじめとして手を尽くしていただいた皆さんには心から感謝を申し上げねばならない事柄なのだが、深刻な事態を迎えていることへの実感が、当の私には今一つ湧かず、「いつも全面的に信頼して来たS君の言うことだから、ともかくも彼が薦める通りにしていこう」ということしか考えていなかったように思う。

 「頭の中が真っ白になって、何も考えられなくなった」とか、「ショックで食べ物が喉を通らなくなった」とか、そういう事態に陥ることはなかったと、自分では思っている。

 膵臓がんは一般に発見が遅く、手遅れのケースが非常に多いので、発見から5年後の生存率ががんの中でも一番低い、要するに助からない病気である。その病に直面したことは確かにショックであり悲しくもなったが、だからといってジタバタしても仕方がない。最後はなるようにしかならないのだから、ともかくも主治医の指示に従い、自分の身を全て預けることにしよう。

 そこまでは気持ちの整理がついていたのだが、例年よりだいぶ早く桜の季節が終わった後、それに続く一年中で一番素晴らしい花の季節に、花を愛でることを全く忘れていた。結局のところ、私は肚が坐っていなかったのである。
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 S君の所見を受けてからの二週間はあっという間に過ぎ去り、4月25日が到来。開腹手術は(ほぼ予定通りだそうだが)5時間にわたり、その日の夜は病院の集中治療室で過ごし、体にまだ管が付いたままの状態で翌日の昼に病室に戻された。こんな体験をしたのは私の人生では初めてのことだ。それでも術後の経過は比較的順調な方で、5月の連休を迎えた頃には、二時間程度ではあるが点滴を外して病院の周辺へ外出することが許された。

 5月5日の祝日、窓の外は好天だ。見舞いに来てくれた家族と共に、入院後初めて病院の外に出て、隣接する緑地をゆっくり歩くことにした。風薫る5月。病院の急患入口の自動ドアが開いて外の空気を吸い込んだ時の心地よさ、そして次の瞬間に目の中に飛び込んで来た緑の眩しさは、今でもはっきりと思い出すことが出来る。

 窓ガラス越しに眺めるのとは全く違う、それは命の躍動とでも言うべきものだろうか。木の幹に体を預け、フレッシュで柔らかな緑の葉に手を触れてみると、命のいとおしさが脈々と伝わって来る。「生きている」とはこういうことなのだ。61歳を迎えたばかりの私は木々の緑にそう教えられていた。
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 その後も経過は比較的順調な部類のまま推移し、手術の日から16日目の5月10日に退院。その日を含めて5日ほど自宅で静養し、5月15日から会社への出勤を再開。それから二週間が過ぎたところで一度体調が悪くなり、再び10日ほど入院することになった。そして、血液検査の数値やCTの画像にも異常は見られなくなったので、6月8日に漸く退院。今から思えば、最初に退院した後にわりと直ぐ会社に復帰したのは、ちょっと頑張り過ぎていたのかもしれない。

 その後も日常生活において辛さのある日々が続いた。何といっても開腹手術というのは想像以上に体へのダメージが大きいものであるようだ。そして、ロクに物が食べられない状態が続き、いつまでたっても下痢が治らない。それに加えて、がん治療とはそういうものであるようだが、術後の体調回復が十分でないうちに抗がん剤の服用が始まり、これがまた色々な副作用を伴うことになる。

 夏が過ぎる頃までは、平日の帰宅後や週末には横になっていることが多く、さすがに気分が滅入った。体重が大きく減って筋肉も落ちてしまった今、もう昔のように元気に体を動かすことは出来ないのだろうか。真夏に咲く花が少ないこともあるのだが、そんな状態だった私は依然として花を愛でる心を失ったままだった。

 その後、初秋の頃から少しずつながら体力が戻り始め、食事の量もそれに合わせて増えていった。抗がん剤の副作用にもある程度体が慣れてきたのだろう。無理のない範囲で出張にも出るようになり、短いコースながら週末の山歩きも再開出来た。そして、抗がん剤の服用は予定通り年末で終了。以後は普通に生活していて、今年6月の経過観察を待つ身となっている。

 昨年の春以降をそんな風に過ごしてしまったからだろう。今年はまだ真冬の間から、例年にも増して花の季節が待ち遠しくなり、春の兆候を探しにカメラを持って外に出ることが多くなった。放っておけばそのまま死に至る病を得た私は、手術とその後の治療によって、ともかくも今こうして生きているということを有難くも実感させていただいている。そんな我が身にとっては、新たな命が輝き始める早春は何とも眩しいばかりだ。
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(1月28日 新宿御苑の寒桜と蝋梅)

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(2月4日 小石川植物園の梅園)

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(3月3日 浜離宮恩賜公園の菜の花畑)

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(3月24日 小石川植物園)

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(3月25日 皇居・千鳥ヶ淵)

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(3月27日 小石川・伝通院)

 花看半開 酒飲微醺 (花は半開を看(み)、酒は微醺(びくん)を飲む)

 『菜根譚』の中の有名な一節で、「満開の花より半開こそ見ごろであり、酒もほろ酔い加減がいい」と述べている。私も昨年の体験で、花や緑を眺めることによって湧き起る「命の愛おしさ」に少し敏感になっているからだろうか、『菜根譚』のこの一節が今更ながら心に響くように思う。物事は何でもmaximumがいいのではない。絶頂期よりも、そこに向かって物事が加速を続けている、言わば微分係数が最大になる頃が一番の見ごろだという訳で、命が最もその躍動感を見せるのが花で言えば五分咲きの頃であり、酒で言えばその旨さが一番わかる程度のほろ酔い加減がベストということだ。

 もっとも、桜に限っては五分咲きの頃だけではなく、散った花も、花と入れ替わるようにして甦る若葉も素晴らしい。
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(3月31日 練馬区・石神井公園)

 そして、桜よりも長く花を楽しめる桃。一つの木から多様な色彩の花が咲き、桜のような忙しなさがない。そのどこかのんびりとした穏やかさが、私は好きだ。
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(4月1日 新宿区・早大通りのシダレモモ)

 桜が終わると、それを待っていたかのように緑が甦る。新緑は何といっても5月が素敵だが、4月中頃の、本当に生まれたばかりのような若葉の輝きもまた格別である。
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(4月7日 小石川植物園)

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(4月8日 新宿区・戸山公園)

 そして、3月に平年より暖かい日が続いた今年は総じて草木の開花が早く、東京都心ではツツジが既に見ごろになっている。
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(以上、4月15日 文京区・根津神社)

 ひとまずは経過観察の身になったとはいえ、私が抱えた病気について今後のことはまだ何とも言えない。基本的に自覚症状の出にくい病気だから、体の中で進行していても自分ではわからないのだ。だから本当にまだ何とも言えない。だが、昨年の轍は踏まず、これからどんなことがあっても、「花をみて笑える心」を忘れないようにしたいものである。

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