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それからの西郷 [読書]

 建築学者の上田篤氏(79)は、なかなか面白い本を書かれる方である。ご専門の領域と頭の中でどう繋がっているのか、歴史や宗教、日本の風習などにも非常に造詣が深く、そのような分野に関する著書も多い。『呪術がつくった国 日本』(光文社)、『神なき国 ニッポン』(新潮社)、『一万年の天皇』(文春新書)、『庭と日本人』(新潮新書)など、これまでも大変興味深く読ませていただいた。

 その上田氏が、今度は『西郷隆盛 ラストサムライ』(日本経済新聞出版社)という新著で西郷さんの生涯を語っている。このタイトルだけ見ると、流行りの映画にかこつけて二番煎じを狙ったものでは?などと受け取られるような気もして、ちょっとどうかなと思うが、中味は決してそんなものではない。上田氏ならではの西郷論である。
西郷隆盛 ラストサムライ.jpg
 上野公園の西郷さんの銅像は、なぜ巨体に大きな頭、太い眉に大きな目という、ハワイ出身の力士・武蔵丸のようにポリネシア系の風貌をしているのか? なぜ筒袖に兵児帯一本の、子供のような服を着ているのか? 明治初年の「廃刀令」のずっと後に建てられた銅像なのに、なぜ腰に脇差をした姿が許されたのか? なぜ犬を連れているのか? そうした素朴な疑問からスタートして、西郷さんと共に西南戦争で絶滅してしまったサムライとは何なのか、そこに焦点を当てていく。本書の書き出しから、上田氏のペースにぐいぐいと引き込まれてしまうのである。

 日本が「男尊女卑」の社会になったのは、律令国家の制度を中国から導入して以後のことであり、それ以前の古墳時代までは女が一家の主人だった。男たちは漁労や狩猟に出ているか、「通い婚」におけるツマドイに行っているか、いずれにしても普段は家にいなかった。そうした男不在の中で女子供を守るのが犬だった。ところが、平安末期にサムライが登場し、そして12世紀末にサムライ国家ができると、サムライが女子供や百姓らを守るようになった。いわば犬がサムライになった訳で、それ以降は犬が飼われなくなった。つまり、遊牧社会における人間とヒツジと犬の関係が、殿様と民百姓とサムライに変わった・・・。「サムライとは何か」を語るのに『葉隠』や新渡戸稲造を紐解く代わりに、縄文時代の日本にまで一気に駆け登る。普通の歴史学者はあまりしないことだ。

 上田氏が西郷さんの生涯を振り返った動機は、あとがきにも記されているように、1995年の阪神・淡路大震災をめぐる我国の官僚社会の責任逃れの行動に大きなショックを受けたことにあるという。日本はどうしてこんな無責任社会になったのか? それを考え続けていると、それは戦後民主主義に問題がある → 戦前も無責任社会が戦争を引き起こした → では、問題の源は明治維新にあったのではないか? つまり「明治維新が責任感のつよいサムライをなくしてしまったからではないか」と思い至るようになったと述べている。従ってこの本では維新が成って以降の、「それからの西郷」に最も光が当てられている。

 普通の本では、会津や函館が落ちて戊辰戦争が終わると西郷には目標がなくなったとして、とたんに登場しなくなる。薩摩に帰って百姓をしていたが、新政府が廃藩置県を断行する時だけ、薩長土の藩兵をまとめて天皇の「御親兵」とし、睨みをきかせることで新政府に協力し、岩倉使節団の外遊中もやむなく留守番役を務めたが、やがて湧き起こった「征韓論」で大久保と対立して再び下野。不平士族の憤懣に自らの体を預けるようにして、勝ち目のない西南戦争に立ちあがる・・・。壊すのは西郷で創るのは大久保、というパターンで記述されることが多い。本書を紐解く前の私の認識も、まあ似たようなものであった。

 ところが、時代はまだ西郷を必要としていた。維新が成り、戊辰戦争を戦って帰ってきた薩摩のサムライ達は、因循姑息な旧弊の残る故郷と、藩父・島津久光の万事守旧的な姿勢に不満を高め、鹿児島城下は不穏な情勢にあったという。それを危惧した大久保に引っ張り出された西郷は、事実上の筆頭家老として藩政改革にあたることになる。しかし、それは明治新政府の方針に対する強烈なアンチテーゼとでもいうべきものであった。

 「維新政府の藩政改革方針が『従来の士農工商の身分をご破算にしてあらたに有能な人材を官吏に任命し、中央集権的に行政をすすめる』のにたいし、西郷は、『藩内を多数の自治的な郷邑にわけて、従来の藩士や郷士にその行政をまかせる』ものだ。しかもその指導者には『維新戦争で生死をかけてたたかった有為な人材をあてる』としたのである。」 
 
 更には、新政府が近代国家としての徴兵制を導入しようとしたのに対し、西郷は従来の藩士と郷士をそのまま新軍隊とした。「江戸時代の武士にただ鉄砲をもたせて近代的に訓練しただけの新時代のサムライに未来をかけた」のである。それぐらい、俄かに権力者となった新政府の官吏の不正・腐敗に西郷は我慢がならなかったのだろう。

 「そこには、西郷の政治にたいする確固とした信念があった。『命もいらず名もいらず、官位も爵禄もいらない者でないと、ともに廟堂にたちて天下の大政を議しがたい』という西郷のことばだ。」
 
 外国人から見れば、サムライ=軍人だが、上田氏が述べているように、日本史の不思議なところは、そのサムライが政治を事実上取り仕切っていた時代に最も平和が続いたことだ。「天皇親政」の時期はいずれも治安が悪く、特に後醍醐天皇の「親政」がもたらした南北朝の対立と、そのために社会が下剋上化した戦国時代は、最も世が乱れた時代であった。そして、サムライの時代にこそ多くの日本文化が作られ、それが大衆にも普及していったのである。

 「とするなら、わが国の社会において『サムライ独裁国家』もわるくないではないか?  それもひとえに『サムライたちのたかいモラルによる』というのであれば、社会はそういうたかいモラルをもったサムライたちを育成すればよい。そしてそれによって世の中が平和に発展するのであれば、『サムライ独裁国家』も一つのすぐれた日本文化であることを理解すべきである。」
 
 上田氏がこうまで言い切っているのは、現代日本の無責任社会に対する失望がそれだけ大きいからだろう。ここでいう「サムライたちの育成」の典型が、西郷が薩摩に設立した私学校である。そこでは、人望・人格のある先輩格の若者が後輩の面倒をみ、教育をし、そしていざという時には先輩が全ての責任を取る、薩摩伝統の郷中教育が行われた。英国人がそれを見て感心し、自国に帰って始めたのがボーイ・スカウトの制度だという。

 西郷が目指した、高いモラルを持つサムライによってリードされる国家。それは中央集権とは反対の、郷邑という地域社会を重視した国づくりであり、そこでは百姓が農業だけでなく幅広い事業を手掛け、卑怯者と呼ばれることを最も嫌い命と財産に執着しないサムライがリーダーとしてそれぞれの地域を指導していく、そういう国を目指していたといえる。それらは西南戦争の結末と共に潰えてしまったが、もし西郷の目指した国づくりが日本の中でもっと力を持っていたら、この国の近代は大きく異なるものになったかもしれない。本書のサブタイトルになっている「西郷隆盛が目指した小さな日本」があったのかもしれない。そして少なくとも、今ほどの無責任社会にはならなかったのかもしれない・・・、と上田氏は想像を巡らせているが、やはり歴史にイフはないのであろう。無責任社会ニッポン。その象徴が、とどまることを知らない財政赤字の肥大化である。

 この夏の政権交代で、鳩山首相は「平成維新」という言葉を使った。しかし、西郷さんの時代に比べると、維新という言葉の値打ちがずいぶんと安っぽくなってしまったと感じるのは、私だけであろうか。

 命もいらず名もいらず・・・西郷さんはやはりラストサムライであったというべきか。
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