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同盟罷業 [歴史]

 2月24日(水)の早朝、大学の春休みを利用して前日からフランスへ一人旅に出た我家の娘からのメールが、家内の携帯を鳴り響かせた。日本とは8時間時差だから、現地では23日(火)の夜11時半頃だ。たぶん、向こうに着いたという知らせなのだろう。

 「今ホテルに着いたって・・・。あっ、国内線がストで飛ばなかったそうよ!」

 携帯の着信音で早朝のまどろみを破られた家内は、目をこすりながら画面の小さな文字を追っている。それによると、前日の昼に成田を発った全日空のフライトは極めて順調だったが、パリから飛行機を乗り換えてストラスブールへ行く予定だった娘を待っていたのは、航空管制官のストライキだったという。

 このストライキは、フランス政府がドイツ、ベルギー、オランダ、ルクセンブルグ、スイスの5カ国との間で航空管制業務の統合を計画していることに抗議して、航空4社の従業員と航空管制官が実施したもので、よりによって娘が旅に出た23日から始まった。この日、パリのオルリー空港では出発便の約半分が運休となったそうだ。これより一日早い22日、ドイツのルフトハンザ航空のパイロット組合が4日間の予定でスト入りしたことや(その後すぐに中止し、経営者側との交渉再開で合意)、英ブリティッシュ・エアウェイズの乗務員組合が日程は未詳ながらスト入りを決めたことは、日本の新聞でも小さな記事にて報じられていた。だが、フランスの航空管制官絡みの話には私も気付いていなかった。

 幸い、娘は現地の旅行会社のサポートを得て列車に乗ることになり、ストラスブールのホテルに無事投宿できたそうだが、それでも到着したのは当初の予定より3時間ほど遅い夜の11時過ぎだったようだ。入国早々いかにもフランスらしい出来事に遭遇したことになる。それもまぁ、いい旅の思い出になることだろう。

 それから一夜明けたヨーロッパの2月24日、今度は南欧ギリシャで24時間のゼネストが全土を覆った。交通インフラや公的サービスが止まっただけでなく、銀行の窓口も閉鎖になったというから大変なものだ。首都アテネでは数万人のデモがあったという。巨額の財政赤字を抱えたギリシャ政府が発表した、公務員の賃金凍結や増税などを柱とした財政再建策に対して公務員労組などが反発し、大規模なストに及んだものだった。市民革命や労働運動の「原産地」だけあって、ストライキというのは今もなおヨーロッパのお家芸であるようだ。
Greece.jpg
 全くの偶然だが、2月24日は1898(明治31)年に日本初の鉄道ストライキが起きた日である。日本鉄道会社という私鉄で機関士らが待遇期成大同盟会を結成したところ、首謀者がそれを理由に解雇されたため、その撤回を求めてストライキを起こしたのである。

 日本鉄道会社というのは1881(明治14)年に華族を主体に設立された日本初の私鉄である。西南戦争の戦費がかさみ財政難に陥っていた明治新政府が、今風にいえば「民活」による鉄道建設を図ったもので、日本鉄道は現在の東北本線、高崎線、常磐線などを次々に建設・運営し、日本最大の私鉄となっていた。このストライキによって上野・青森間の列車が止まったが、会社側が要求を呑んだので27日にはストが解除となったそうだ。

 あらためて年表を眺めてみると、明治31年というのは騒がしい年である。前年の暮に第二次松方内閣が総辞職していたが、年が明けてからも伊藤博文(第三次)、大隈重信(第一次)、山縣有朋(第二次)と、一年の内に三回も内閣が替わった。日清戦争前に比べて議会における政党の力が強くなり、大隈率いる進歩党と板垣退助を党首に掲げる自由党が提携して、藩閥政府の地租増税案を衆議院で否決。その後両党は合同して憲政党となり、伊藤が強引に衆議院を解散するも、続く総選挙に憲政党は圧勝し、(首班の大隈自身は貴族院議員であったものの)軍部大臣以外は全て政党人でかためた日本初の政党内閣として、第一次大隈内閣(いわゆる隈板内閣)が成立したことは、我国の憲政史上で特筆されるべきものだろう。

 議会で民党勢力が存在感を増していく一方、労働運動も萌芽期にあった。前年には高野房太郎が「労働組合期成会」を結成。年が明けて日本鉄道のストが始まる直前の2月10日には、群馬県の三井富岡製糸所で743名の女工たちが労働条件改定に反対して5日間のストに入っていた。そしてこの年の秋には、後に「大逆事件」に係わったとして処刑された幸徳秋水らが「社会主義研究会」を結成している。日清戦争には勝ったものの、「三国干渉」を受け入れざるを得なかった現実に直面し、国民は政治への参加意識を覚醒させつつも、まだ選挙権は所得によって大幅に制限されており、始まったばかりの近代工業化が劣悪な環境の労働現場を次々に産み出していた時代と理解すべきであろうか。

 私が学生だった1970年代までは、鉄道やバスのストライキは結構見られたが、その後は急速にその数を減らしていき、最近は広い意味での労働争議自体が殆どニュースにならない。中国のように、都合の悪いニュースは報道されない国々の実態は何とも言えないが、少なくとも先進国について言えば、我国と似たような状況ではないか。本家のフランスは例外的に、ストライキが今も年中行事であるようだが。世の中が総じて豊かになる中で、ストライキに対する国民の受け止め方や、実力行使によって得られる成果の限界といったものが、70年代までとは大きく変わっていったのだろう。
国鉄スト.jpg
 再び現在のギリシャに目を転じると、政府が公務員の賃金凍結や増税などを打ち出さざるを得なかったのは、この国の財政赤字がGDP比12.7%と、EU基準の4倍に達していたこと、その事実を糊塗するような統計上の粉飾が前政権によって行われていたとされることから、国際金融市場でギリシャに対する信用懸念が増幅し、通貨ユーロへの加盟の存続が危ぶまれているからだ。EUはギリシャに対し、2012年までに財政赤字のEU基準(GDP比3%以内)を達成するよう強く求めており、EUの中でこういう時に頼りにされやすいドイツは、ギリシャ救済には冷ややかである。ギリシャ政府としては、国民に対して「苦い薬」を処方せざるを得ない。

 面白いことに、地元紙による世論調査では、ギリシャ国民の7割超が最近のストライキには反対しており、6割近くが政府の財政再建案の方向性は正しいと回答しているそうだ。ストライキは公務員の既得権益の擁護でしかなく、大方の国民は今こそ「苦い薬」を飲まなければならないと認識しているということだろう。

 財政赤字といっても国債の殆どを国内で消化している日本と、慢性的な経常赤字を抱えたギリシャとでは事情が大きく異なるものの、肥大化する一方の財政赤字を何とかしなければならないことは日本も同じである。「高福祉・高税率」なのか、「低福祉・低税率」で行くのか、日本のこれからの進路を早く決めて実行に移さなければならない。その時に「苦い薬」を飲む覚悟が出来ず、「高福祉・低税率」でなければイヤだといってストライキを構えるような国民であるならば、この国に未来はないだろう。

 「今日は予定通りオルセー美術館に行った後、サンジェルマン周辺とジョルジュ・ポンピドー・センターに行ってきました。美術館もいいけど、教会ってとっても好きです。サンジェルマン・デ・プレ教会がとっても素敵だったので、もう一度行きたいな。」

 今朝届いた娘からの続報を見る限り、ストラスブール滞在を終えてパリに戻った娘は、引続きマイペースで一人旅を楽しんでいるようである。いつか娘が家庭を持つとして、その子供の世代にもこうした機会を与えられるような世の中であって欲しいものだが、我国が次の世代にそうした豊かな社会を渡していけるかどうかは、ひとえに今の私達にかかっている。

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コメント 2

H氏

あのお嬢ちゃんが一人でフランスですか。親が歳とるわけですなぁ。。。
by H氏 (2010-02-27 21:57) 

RK

私が学生時代にバックパックを背負って貧乏旅行をした頃とは大きく異なり、海外にいても携帯でリアルタイムにアクセスできる時代になりました。我々が国内の山の中にいる方が、よっぽど音信不通なのかもしれません。
by RK (2010-02-27 22:25) 

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