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夜行列車 [鉄道]


 私の書架には、大切な宝物が一つある。

 それは数年前、週末の散歩の途中に神田の古本屋で偶然見つけた小さなものだ。世に出てから38年近くたっているので、表紙も中のページもすっかり黄ばみ、背表紙も糊付けが幾分はがれかけている。出版された当時は大量に印刷され、家庭やオフィスにも置かれ、そして用済み後は惜しげもなく捨てられていたはずだから、骨董品的な価値はないだろう。だが、その当時の日本の姿をある側面から正確に描き出したデータブックとしては、貴重な存在といえるものだ。

 その宝物とは、1972(昭和47)年8月版の「国鉄監修 交通公社の全国小型時刻表」である。

 後ろの方に載っている国鉄の運賃表を見ると、当時国電の初乗りは30円だった。今は130円だから38年の間に4.3倍になったことになる。当時は定価100円だったこの小型時刻表に、古本屋で500円の値段がついていたのは、この38年間の物価上昇に概ね見合っていると言えなくもないが、現時点での実用的な価値はゼロなのだから、あくまでも鉄っちゃん向けのプレミアムと考えるべきなのだろう。
DSCN2126.JPG
 最初の方のページは昔ながらの鉄道路線図なのだが、そこがもう既に昭和47年の日本である。山陽新幹線は、まだ岡山までしか開通していない。今は廃線になった赤字ローカル線も殆ど手つかずのまま残されている。もちろん青函連絡船や宇高連絡船も健在である。そして、実際の列車ダイヤを見てみると、実に多くの寝台列車・夜行列車が全国を走っていたことがわかる。人々が夜の間を列車で移動する時代だったのだ。

 新幹線からの乗客を引き継ぐ意図でダイヤが組まれたのだろう。新大阪・大阪及び岡山発の山陽・九州方面行き特急・急行が寝台或いは夜行の形で毎日30本も出ていた。それに、全盛期は既に過ぎていたとはいえ、東京駅から東海道を下る寝台・夜行の特急・急行もまだ毎日14本が出ていた。

 当時、東京のビジネスマンが出張し、朝の9時半に福岡市内の顧客とアポを入れたとしよう。彼の最初のチョイスは、当日の朝7:20に羽田を出る日本航空の福岡行きに乗ることである。福岡着は8:55だが、飛行機のことだからロスタイムをそれなりに見込む必要がある。板付空港は福岡市の中心地にも近いが、今のように博多駅や天神と直結する地下鉄はまだない時代だ。顧客との9時半の約束を守れるかどうか。因みにこれより早く出る福岡行きのフライトはなく、次は全日空の9:35着になってしまう。

 次のチョイスは、東京駅を前日の16:30に出る寝台特急「さくら」に乗ることだ。これなら博多着が8:56である。相手が博多駅にもっと近い場合には、それより15分遅い「はやぶさ」も可能かもしれない。そして三つ目の選択肢は、東京駅を前日の19:00に出る新幹線「ひかり77号」に乗り、新大阪で寝台特急「明星4号」に乗ることだ。博多着は7:51であるから、駅前の喫茶店のモーニング・セットで一服してからアポに向かうことも可能だ。もう少し間口を広げ、午前中に福岡入りできればいいとするならば、あと3便のフライト、6本の寝台特急があった。

 私の父もよく九州へ出張していたが、寝台列車に乗ったという話はついぞ聞かなかったから、前日の午後~夕刻の飛行機で福岡入りしていたのか、或いは朝のフライトで経ち、昼前からアポが始まってその日は泊まりにしていたのだろう。前日に入ろうが当日泊まろうが、いずれにせよ現地では夜の宴席が組まれたりして、ホテルも街も潤うことになる。

 だが、今よりもフライト数がずっと少なく、料金も高かったから、福岡へ出張するビジネスマンの全てが飛行機を利用した訳でもないはずだ。といって、岡山まで新幹線、その先は在来線特急を利用する場合でも、東京・博多間に11時間弱を要した時代である。朝から移動を始めてもその日は一日つぶれてしまう。だが、それよりも速い交通手段がない以上、こうした所要時間を前提にスケジュールを組むより他はない。携帯電話もノート型パソコンもない時代。今から思えば当時のビジネスのスピード感覚は、こうした交通事情の制約を反映したものでもあったのだろう。

 ついでながら、当時は東京から24時間以上をかけて西鹿児島まで行く列車があった。急行「高千穂」・「桜島」・「屋久島2号」、そして特急「富士」である(「桜島」以外の3本は日豊本線経由)。24時間以上をかけると、終点に着くまでに自分と同じ名前の上り列車と2回すれ違うという奇妙なことが起きるのだが、それにしても気の長い旅である。我慢して終点まで乗った人はどれぐらいいたのだろうか。

 昭和47年というと、私が高校生になった年である。クラブ活動で山登りを始めたため、新宿から出る中央本線の夜行列車には度々お世話になった。当時は急行「アルプス」の全盛期で定期列車が一日11往復あり、そのうち「アルプス9~11号」が夜行だった。松本や信濃大町、白馬から北アルプスを目指す時にはこれらの急行に乗るために、新宿駅の地下通路によく並んだものだ。
時刻表(中央本線).jpg
 一方、南アルプスや八ヶ岳へ行くために甲府や茅野で降りる場合には、最終列車でもある23:55新宿発の長野行の普通列車をいつも利用した。この鈍行はEF15というレトロな電気機関車が牽引する旧式の客車列車で、リクライニングも何もない、あの硬い座席に横になるのだが、どんなに工夫をしても熟睡などできるものではない。だから、入山日というと睡眠不足のまま大荷物を背負って歩くことになった。ゆったりとしたシートに深々と寝られる夜行バスが夏山登山用に幾らでも走っている今は、まさに別世界のようだ。そして列車のスピードアップと共に、登山者が利用する中央本線の列車は朝早い特急になった。

 その他に列車ダイヤが今と大きく異なるのは、やはり東北・上越の在来線だろう。新潟や盛岡までの新幹線がない時代。在来線は特急列車のオンパレードだった。上越国境の土合(どあい)駅と土樽(つちたる)駅の間には、ループ式で有名な清水トンネルがあるのだが、このトンネルを越えていく列車を数えてみると、昭和47年8月当時は毎日29往復もあった。そのうち21往復は特急・急行である。だが、上越新幹線の開業から既に27年を経過した今、在来線の特急・急行は軒並み廃止となり、このトンネルを越える定期列車は普通列車が一日5往復と寝台特急2往復、夜行急行1往復だけになってしまった。

 その中には、来週3月13日(土)のダイヤ改正で姿を消すことなる列車がある。寝台特急「北陸」と急行「能登」(共に上野・金沢)である。

 「夜汽車」という言葉は、蒸気機関車が存在しなくなったので既に過去のものになったが、今度は「夜行列車」という言葉が世の中から忘れられようとしている。
寝台特級北陸.jpg

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