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花の季節 [宗教]

 
敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花 (本居宣長)

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 今年もまた、桜の季節である。東京では4月1日に桜の満開が宣言され、この週末は花見盛りとなった。だが、今日の日曜日も天気予報が伝えていたほどの晴天にはならず、文字通り「花曇り」と「花冷え」の、花見にはいささか肌寒い一日となった。我家の前の桜並木も、今年の花見客は例年より静かである。

 私たち日本人が桜の開花に寄せる思いは独特のものだ。まだ若葉も何一つない枝から薄桃色の花が、ある時一斉に咲き始め、みるみるうちに街や野山を染めていく。その不思議さは、この国におわす八百万の神のなせる業という他はない。

 「サクラの語源については諸説あって定かでない。『咲くうららか』がつまってサクラになったとか、稲の精霊を意味するサと、神座(かみくら)のクが結びついてサクラとなったという説などいろいろとあるが、情緒的には咲くうららか説に軍配を挙げたいような気もする。」
(柳 宗民 著、『日本の花』、筑摩書房)

 稲の精霊や神座に語源を求める節があるぐらいだから、サクラという言葉はずいぶんと古くからあるのだろう。ついでながら、桜という字はもちろん中国から伝わった漢字だが、あちらでは日本でいうサクラではなく、ユスラウメを指す文字なのだそうである。

 サクラがそれぐらい古い言葉だとすれば、古来、我々の祖先たちは桜の花に心を揺さぶられていたのだろうとつい思ってしまいがちだが、中世までは花鳥風月の移ろいを楽しむ余裕があったのは貴族階級だけで、庶民も春の花見を楽しむようになったのは江戸時代になってからのようだ。

 花を愛でる、ということで思い出すのは、仏教関係の本を読むと必ずといっていいほど言及されている、お釈迦さまにまつわる「拈華微笑(ねんげみしょう)」というエピソードである。

 ある時、釈尊はインドの霊鷲山(りょうじゅせん)で、大梵天王(仏教の守護神)から金色の花を捧げられ、弟子たちに対して説法をお願いされた。釈尊はその花を持って講座に上がり、花を弟子たちに示しただけで一言も言わず、ずっと皆の顔を見ている。誰もその意味がわからない。すると弟子の一人の摩訶迦葉(まかかしょう)だけがその意味を悟って微笑した。釈尊は「吾に正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)、涅槃妙心、実相無相、微妙(みみょう)の法門あり。不立文字(ふりゅうもんじ)、教外(きょうげ)別伝、摩訶迦葉に付嘱す。」 (私には、文字では表せない、言葉では述べられない仏の真理がある。その真理を迦葉、そなたに譲ったぞ。) と言った・・・。

 日本における曹洞宗の始祖・道元が著したあの難解な書物・『正法眼蔵』の名はここから来ており、この「拈華微笑」の説話が禅宗の始まりとされているのだが、それにしても、釈尊が示した花を見て迦葉はなぜ微笑んだのか。

 「花をみたとき、にっこりと笑う心。花の美しさに自然に微笑む心、この心こそ人間誰もが持っている仏心です。 (中略)
 花をみて笑える心は、食欲、色欲、財欲、名誉欲、睡眠欲などの強烈な人間五欲のほかの心です。その、ほかの心が花をみてにっこりと笑わせる。人間にとって一番純粋な心、清らかに澄んだ心が笑わせる。
 なんぼ花をみても銭もうけにはならん。デートの代わりにもならん、腹もふくれん。が、それでも花をみて笑える。どんな貧乏のどん底におっても花をみて笑える。こういうすばらしい心が人間には在るのです。それが人間の本心だと分かることが仏教じゃ。 (中略)
 きれいだなぁ。喜ぶ、その心を仏さまに捧げとるんだ。花を、ではない、花みて笑う心を、仏さまに差し上げとるのです。
 この仏心こそ人間性の原点だと分かるとき、心の目が開く。開けるとどうなるか。華道の宗家がこういっている。
 “石も花 垣も花 華台も花 鋏も花 水も花 生けられる草木ももちろん花 生ける姿も花なり”
 ここまで到れば、絢爛たる百花ばかりでなく、松の緑、樹木の葉、一切の新緑も様相一変。道端の岩も石も土も、ありとあらゆるものが花となる。何をみても花だ。そう分かれば朝から晩まで笑いはとまらん。笑ってばかりいなくてはならん。」
(高瀬 広居 著、『仏音』、朝日新聞社 より 臨済僧 山田無文の言葉)

 何しろ不立文字なのだから、釈尊が迦葉に伝えた「仏の真理」が何かを文字や言葉で表すことは出来ない。上に引用したのは、あくまでも無文さんの一つの解釈なのだと考えるべきなのだろう。だが、親が自分の幼子をいとも簡単に殺めてしまうような、何とも殺伐とした今の世相の中で、「花をみて笑える心」に立ち戻ってみることが、我々には必要なのかもしれない。
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(京都・仁和寺)

 今は満開の桜も、来週には散る。しかし、その後にも次々に春の花はやって来る。むしろ、同じ花が一斉に咲く桜とは違い、「山花開いて錦に似たり、澗水湛えて藍の如し」(『碧巌録』)というように、これからの季節は山に様々な花が咲いて錦のようになる。その多様性が楽しいのである。

 今週末は天気が今ひとつ芳しくなかったので、月に二回程度を目指している友人達との山歩きは来週以降に延期となった。次の週末の幸運を祈りたい。

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