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伝通院に散る桜 [歴史]

 この春は、四月になっても気温の低い日が続いている。

 シベリア上空で偏西風の流れが澱んでいるところがあるために、東アジアでは上空で気流が北から南へと屈曲しており、寒気が南下しやすいのだそうだ。桜が満開になった後は強い風の吹く日がなかったので、都心でも桜の花はまだよくもっているが、今週はすっきりしない曇り空や冷たい雨の日ばかりで、花見客は例年よりだいぶ少なかったようだ。この低温傾向は今月の20日前後まで続くそうなので、春爛漫は連休直前までお預けになるのだろうか。

 そんな中で、木曜日は久しぶりに朝から爽やかな青空が広がったので、通勤前に花の下を散歩しようと、いつもより30分近く早く家を出て小石川の伝通院に寄ってみることにした。快晴の朝はやはり気分がいい。桜並木の続く播磨坂を登っていくと、散り始めた桜が路面を飾り、太陽はまぶしく、いかにも春である。しかし、冷え込みで吐く息は白くなり、犬を連れて歩く人々も厚着をしていて、桜色の景色とは何だかミスマッチである。
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(播磨坂を歩く)

 歩くこと15分。春日通りと千川通りに挟まれた高台の一番上にある伝通院は、正式には無量山寿経寺という浄土宗の寺で、家康の生母・於大(おだい)の墓があることでよく知られている。1415年の開山で、今よりも少し西側にあったらしい。1602年に京都の二条城で息を引き取った於大の方は、当初はそこに葬られたのだが、翌年に家康が現在の場所に於大の墓を建てて改めて納骨し、寿経寺をそこに移転させたそうだ。以後、於大の法名から取った「伝通院」の方が寺の名前としては有名になった。

 徳川家の菩提寺だけあって、往時は幾多の塔頭を擁する大寺院であったようだ。江戸期から明治にかけて何度も大火に見舞われたので、現在の建物は全て再建であるが、山門から立派な屋根の本堂へと続く石畳の道には特有の品格があり、折にふれてここを訪れるのが私は好きだ。特に桜の季節、それも花が満開を過ぎて桜吹雪が始まる頃がいい。
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(伝通院の本堂)

 本堂の左奥には、都心にしては驚くほど広い墓地がある。東京でも谷中や染井など、墓地は桜の名所でもあるのだが、伝通院の桜もなかなか見事である。徳川家にまつわる女性達の墓が多いこの寺で、於大の墓はやはり群を抜いており、境内の全ての桜を眺められるような位置にある。その於大にとっては曾孫になるのだが、二代将軍秀忠の娘で豊臣秀頼に嫁ぎ、大阪夏の陣で落城の炎の中から救出されたあの千姫も、この墓地に眠っている。

 この墓地の中で異色の存在は、幕末の志士・清河八郎(1830~1863)であろう。出羽の庄屋に生まれ、鶴岡の儒者に学んだ後、18歳で江戸に出た。昌平黌に入学し、剣は千葉周作に学んだというから、文武共に優れた人物であったのだろう。後に神田三河町で北辰一刀流の町道場を開き、学問もそこで教えたという。当時の野心家にはよくあるパターンのようだが、事実、清河は大変な自信家で高飛車な男だったらしい。自分以外の人間が愚鈍に見えて仕方がない性格の持ち主と言うのは、いつの時代にもいるものなのである。

 その清河は、程なく幕府に追われる身となる。万延元年(1860年)の桜田門外の変ののち志士活動に入り、江戸で計画した尊譲挙兵が幕府に漏れた。井伊大老暗殺の次は老中・安藤信正だ、という噂の策源地の一つは清河の屋敷だったのである。各地に潜伏した清河は尊攘の志士と交流。久留米の真木和泉(後に「蛤御門の変」に敗れ自刃)や筑前の平野国臣(後に「生野の乱」で捕らえられ獄死)とも交わっていたというから、行動力のある男でもあったのだろう。その一方、松平主税介の屋敷に出入りしていたことで幕臣の山岡鉄舟や高橋泥舟とも交流があり、山岡などは清河をかなり買っていたようである。

 文久2年(1862年)には薩摩藩主・島津久光の上洛を利用した討幕挙兵を画策したが、久光は動かず、むしろ藩内の過激な動きを弾圧したため(寺田屋事件)、これも失敗。江戸に帰った清河は、その翌年に幕府の浪士募集に応じて浪士隊に入隊する。この時の募集の場所が小石川の伝通院だったのである。今のように公共の広場など何もない時代に、大人数を集められる場所といえば寺社の境内ぐらいだったのだろう。

 将軍・家茂の上洛に際し、京都でテロを繰り返す尊攘の浪士達を取り締まるために編成された幕府の浪士隊。自身が尊攘の志士であった清河がそこに応募したのは幕府にしても奇妙なことだったが、案の定、浪士隊が京都に到着すると、清河は隊員一同の前で演説し、「我々は浪士であり、幕府から禄位を得ていない以上、我々は幕府を奉ぜず、尊王の大義にのみ奉ずる」と宣言。続けて朝廷にも攘夷の貫徹を建白し、朝命を得たとして、速やかに関東に下るべく浪士隊に「命令」を出した。幕府が募集した浪士隊を利用して、それを朝廷直轄の尊攘の武士団にしてしまおうと考えた訳である。この策略に異議を唱え、清河に従わなかったのが近藤勇、土方歳三、芹沢鴨らであり、京都に残った彼らが程なく新撰組を結成したことは、世に知られる通りである。

 浪士隊乗っ取り作戦に失敗した清河は江戸に戻り、伝通院裏の山岡鉄舟の家などに出入りしていたが、知人に招かれて麻布の上之山藩邸で酒を飲んだ帰り、一の橋で幕吏の佐々木只三郎らによって斬殺された。伝通院の清河の墓には、首だけが葬られたという。享年34歳。その後も、「策士 策に溺れる」の典型として清河が引き合いに出されることは多い。

 因みに、清河を斬った佐々木は幕府講武所の剣術師範であり、京都見廻組を率いて尊攘派から恐れられた男である。後に龍馬暗殺の下手人とも言われるが、鳥羽伏見の戦いで官軍の銃撃を受け、戦死している。享年35歳。こういう若い世代の多くの命と引き換えに維新は成ったともいえる。

 幕末に浪士隊がここに結集して京都に向かった、そんな歴史があったとは思えないほど、伝通院は静かな朝を迎えている。鳥のさえずりが聞こえ、風もないのに、天上の阿弥陀仏の手からこぼれるように、少しずつ桜が舞う。その風情が実にいい。
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 散る桜 残る桜も 散る桜 (良寛の辞世の句と伝わる)

 都心のお花見も、この週末までだろう。


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コメント 2

T君

え”っ
清河八郎のお墓、伝通院にあるのですか!
庄内と言うか最上川をチョット遡った清川村の清河八郎記念館に行ったことを思い出しました
 確か2月だったと思います
 記念館前の銅像はブルーシートに覆われていて、記念館の玄関の呼び鈴を押したら、裏の家からおじいさんが出てきて「4/1まで休館です」!
 「東京から来たんですけど」と言ったのに、あえなく撃退!

 藤沢周平に嵌っていた頃「回天の門」を読んだ直後だったような…

by T君 (2010-04-21 03:37) 

RK

本堂の左手に墓地の入口があるのですが、そこを入って左に折れると、しばらくしてその左手に清河八郎の墓があります。お蓮という夫人(清河が斬られる前に幕府に捕らえられ獄死)の墓と並んでいます。

その右隣には、詩人・佐藤春夫の墓が立っています。
by RK (2010-04-21 09:02) 

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