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大人の遠足 [ワイン]

 新宿を朝出た特急「あずさ」が笹子トンネルを越え、甲斐大和の駅を通過すると間もなく、左の車窓に甲府盆地の眺めが飛び出すように現れる。

 それまでは雲の多い空だったのが、目の前に展開するのは爽やかな青空と、太陽をいっぱいに浴びた盆地一面に広がる畑と家並み、そして彼方に聳える白銀の南アルプスだ。右カーブで勝沼ぶどう郷駅をゆっくりと通過するところでは、今は遊歩道になった旧ホームが絵に描いたような満開の桜である。

 前日までは肌寒い雨模様の日が続いていたが、土曜日の今日は幸いにして暖かく光あふれる晴天になった。塩山を過ぎると線路の両側は果樹園が続き、満開の桃の花が海のようだ。足元には菜の花の黄色が鮮やかなアクセントを見せる。桃源郷とはこのような景色のことを指すのか。私の左隣で窓側の席からそれを眺めながら、家内は歓声を上げている。今日は以前からの約束で、山梨県の或るワイナリーが主催するイベントに二人で参加することにしていたのである。

 ちょうどこの週末に「信玄公まつり」が行われる甲府でかなりの人が降り、それから程なく韮崎の駅に到着。目の前に茅ヶ岳が大きく広がる駅前では、ワイナリーの人達が送迎バスを仕立てて待っていてくれた。「グレイスワイン」のブランドで知られる勝沼の中央葡萄酒工業㈱が、この先の北杜市明野町にブドウ農場とワイナリーを持っていて、今日はここで垣根栽培される甲州ブドウの植樹をする、その体験をさせてくれることになっていたのだ。

 駅から20分ほどバスに揺られると、茅ヶ岳の山麓の南斜面にその農場はあった。2002年に開園され、総面積は8ヘクタール。赤ワイン用のメルロ、カベルネ・ソーヴィニヨン、カベルネ・フラン、プティ・ヴェルド、ピノ・ノワール、そして白ワイン用のシャルドネと甲州種が栽培されている。8ヘクタールのうち半分近くが甲州種になるようで、畑が全部出来上がるのは来年だそうだ。その畑に着くと、彼方に南アルプスの甲斐駒ヶ岳(2,967m)が天を突くような姿を見せている。小躍りしている私を見て、家内はいつものように笑う。
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(写真右が甲斐駒ケ岳、左はアサヨ峰)

 農場長さんから説明を受け、植樹の作業がさっそく始まる。農地にはすでに穴を掘ってあり、指導を受けながら穴の形を整えて苗木を立て、土をかぶせてしっかりと固めるのが私達の役目だ。ブドウの苗木は50センチほどの長さで、芽の形はあるがまだ葉は出ていない。病気に強い品種の台木の上に甲州種が接ぎ木されており、その接ぎ目が地上に出るように穴の深さを調整し、根がよく伸びるよう放射線状に下向きに広げるのがポイントだ。大地と向き合い、土の感触を確かめながら行うその作業は、こうした機会がなければ体験できるものではない。それにブドウの植樹というのは50年に1回なのだそうだ。
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今日はこのイベントの参加者100人によって300本ほどの苗木が植えられたのだが、これらがブドウの実を結ぶのは数年後のことだ。それが収穫されたらどんな白ワインになるだろうか。その頃の我家はどんな風にして過ごしているだろうか。そう思うとなかなか感慨深いものがある。明野町は海抜680~700mで4月~9月の降水量が830ミリ。年間2,600時間の日照時間は日本一だ。向かい側の南アルプスは名水の地でもある。こうした自然条件の下で、日本の気候と日本の食材に合った美味しいワインになるよう、順調に育っていって欲しいと、家内も私も心から思う。
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(写真後方は茅ヶ岳)

 植樹の作業は一時間足らずで終わり、そこからバスで5分ほどのミサワワイナリーに向かう。そこでは地元の食材を使ったランチが用意されており、この農場で育った甲州種から作られた「グレイス茅ヶ岳白’07」が振る舞われた。タマネギやニンジンのマリネ、カボチャの煮物、ウドの天ぷらなど、それぞれに淡い味付けだが、アルコール度数が11度と軽く、何よりもすっきりとした味わいのグレイス茅ヶ岳は、このように野菜が本来持つ甘味と旨味を楽しむ料理には良く合うようだ。

 ランチが終わると、それから1時間ほどは最後のプログラムのテイスティング・セミナー。オーナーの三澤茂計さんの解説で、更に4種類のワイン(赤・白が各2種類)のテイスティングを楽しむ企画である。同じ白ワインでも、この畑で育った甲州種とシャルドネ種の味わいの違い、そして同じくここで育ったカベルネ・ソーヴィニヨンから作った、まだ熟成中で未発売の赤ワインが秘めた可能性を楽しむことができた。
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 グレイスワインが企画するイベントに参加するのは、実はこれで3回目である。これまでは勝沼のブドウ畑とワイナリーが会場だったので、明野の農場を訪れたのは今回が初めてである。勝沼がどちらかといえば箱庭の中のような景色であるのに対し、ここは快晴ならば富士山、南アルプス、八ヶ岳を三方に眺めることが出来る。山頂そのものは雲の中にあったが、釜無川の谷の向こうに広がる南アルプスの雄大な眺めに、自身は山歩きをしない家内も感動したようだ。深呼吸をして、「いいなぁ~」を連発している。その様子が、私には嬉しい。

 甲州種とは、日本で千年以上も食べられてきたブドウである。飲用に適した水が少ないヨーロッパでは、昔からワインという飲み物を作るためにブドウが使われてきたが、水の良い日本ではブドウはもっぱら食べるために利用されてきた。ブドウの収穫量を増やすためには、いわゆるブドウ棚方式で栽培するのがよいが、良いワインを作るためには一本の木から成る実の量を制限した方がよく、それにはヨーロッパで見られるような垣根方式の栽培が求められる。

 日本の気候と食文化に合うワインを作ろうと思えば、千年以上の食用の歴史がある甲州種がいいはずだが、最近は農家も巨峰やピオーネといった高級種の栽培に向かいがちで、このままでは甲州種は絶滅の危機にある。ならば、ワイナリーもブドウの供給を契約農家に頼るのではなく、自前で畑を持って栽培するしかない。

 こうした危機感を持った三澤さんは、2002年に明野でのブドウ栽培を垣根方式で始めた。そこは、シャルドネやカベルネなど、欧州品種を育てる畑でもあった。日本の風土の中で育つ日本のワイン。しかし、それを国内需要だけに向けるのではなく、ワインである以上は世界の市場に認知されるよう、輸出に挑戦したのである。そのためには、どうしても世界標準であるEU基準をクリアしなければならない。だから、製品の品質は常にEU基準で考え、ヨーロッパでも評価されるよう常に努力を続けている・・・。

 語り口は訥々としているが、オーナーの三澤さんの説明はいつも気持ちが熱い。「至誠天に通ず」というような信念があるのだろうか。日本人の誠実さ、ものづくりに取り組む姿勢の真面目さは海外から高く評価されてきたのだから、今はまだ世界の中ではマイナーな存在でも、努力を続ければ必ず世界の注目を集めることが出来るはずだ。日本は経済が内向きになっているが、世界と真っ向勝負をしなければだめだという、経団連のトップに語って欲しいようなことがこの人の口から出て来ることに、いつも驚かされる。

 この規模の会社にとって、自前の畑を持って欧州品種を育て世界と勝負することや、甲州という世界の中ではマイナーな品種を主軸に打って出ることは、企業の体力からしても大変なことだろう。資本の論理からすれば、もっと資本効率の高いビジネスモデルがあるのかもしれない。しかし、こうした果敢な挑戦ができるのは、非上場企業ならではのことだろう。そして、それを応援する消費者が増えていけば、決して大儲けをするような事業ではないが、社会の中で輝くような存在価値のある仕事になるのではないか。そんな取り組みを容認する枠組みが資本主義にはあっていいはずだ。そして、このような日本のワイン作りを、私は応援していきたい。

 参加者一同の大きな拍手と共に今回のイベントは終わり、バスに乗って私達は韮崎の駅に向かった。帰りがけに試飲をさせてもらい、とても気に入って買い求めた「グレイス・ロゼ2009」は、来月の結婚記念日にでも開けようか。そんな話をしながら、雄大な景色と畑の土の感触、美味しい日本のワインと、何よりも「ものづくり日本」の心意気を確かめることができた今日一日に、家内と私は大きな幸せを感じていた。

 神様も最後に粋なはからいをしてくれたものだ。韮崎のホームからは、この日初めて富士山が大きな姿を見せていた。
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