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明日はわが身 [世界]

 4月も下旬だというのに真冬のような寒さと雨が二日続いた後、週末はやっとこの季節らしくなってきた。土曜日の朝、勢いを取り戻し始めた青空に誘われて散歩に出てみると、家の周りにも新緑が確実に増えている。桜並木はすっかり葉桜に覆われ、公園ではハナミズキが一年中で一番美しい姿を見せている。やはりこの季節は青空と新緑のまぶしさが、私達にとって一番のビタミンだ。
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(小石川植物園)

 久しぶりにゆっくりと過ごす土曜日の午前。コーヒーを飲みながら新聞を広げると、目にとまるのは、信用不安に揺れるギリシャがEUとIMF(国際通貨基金)、そしてECB(欧州中央銀行)に対して金融支援を要請したとのニュースである。

 前政権の下で政府の債務について粉飾まがいの取引が行われ、財政赤字額が公表数字を大幅に上回っていたことが昨年の秋に発覚して以来、国際金融市場ではギリシャという国そのものの信用力への懸念が広がっていた。統一通貨・ユーロに加盟する国は、財政赤字をGDP比3%以内にコントロールすべしというルールがある中で、ギリシャの財政赤字(2009年)は13.6%に達した。市場やユーロ加盟国からの圧力に押される形でギリシャ政府は財政赤字の削減策を発表するが、なかなか市場の新任を得られない。いざとなればEUやECBが支援をするかというと、各国の反応も一枚岩ではなく、そこが更に市場の不安を掻き立てる。問題の発生から半年余りを経てギリシャ政府は、国際金融市場における同国国債の安定的な発行が困難になったとして、とうとう緊急支援を要請することになった。
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 学生時代に受けた世界史の授業は、古い方から話が始まるので、古代ギリシアの話は必ず出てくる。(どういう訳か、古代・中世の話をする時は「ギリシア」という表記が使われるようだ。) 紀元前9世紀頃からポリスと呼ばれる都市国家が現れ、地中海各地に盛んに殖民活動を行い、各都市が結束してアケメネス朝ペルシャと戦い、パルテノン神殿が造られ、偉大な哲学者や悲劇作家が登場し・・・。ずいぶんと色々な人名を覚えさせられたものだし、太宰治の『走れメロス』を知らない人はいないだろう。

 だが、紀元前4世紀のマケドニアにアレクサンドロスが登場し、ポリス同士の内戦が始まると次第にギリシア世界は衰退。紀元前2世紀の中頃に古代ローマの属州になると、ギリシアの名前は教科書から消えてしまう。やがて4世紀の終わりにローマ帝国が東西に分裂すると、「東ローマ帝国」がギリシア世界を継承していくが、その中心はあくまでもコンスタンティノープルやアナトリア地方だった。ペロポネソス半島やエーゲ海地域はすっかり影が薄くなってしまい、それから先はどんな歴史をたどったのか、私達はほとんど知識を持ち合わせていないといっていいだろう。

 ペロポネソス半島が再び歴史の教科書に登場するのはもう一度だけ。それも時代が一気に飛んで19世紀の初めである。オスマントルコからの独立を掲げて1821年にギリシャ独立戦争が始まり、列強各国がこれに介入し、1830年にようやくギリシャの独立が国際社会に承認された。そのことだけが載っている。だが、年表を見てみると、ギリシャはその後もトルコとの対立関係が続き、20世紀にケマル・アタテュルクのトルコ革命が起きた時には、領土の拡大を目指してトルコと交戦するも敗北。第二次大戦中は枢軸国側の支配下にあった。

 地政学的にはなかなか重要な位置にあるために、戦後は米国が肩入れし、一貫して西側陣営にあったが、1968年からは軍政が続いた。その軍政が1974年に崩壊すると、そこから先は中道左派(PASOK)と中道右派(ND)の二代政党が、ほぼ交互に政権を担ってきた。(1974年というと私が高校三年生の時で、まだ社会主義が世界の中で元気だった時代。軍政の崩壊と左派政権の誕生を新聞各紙がずいぶんと持ち上げていたのを、今でも覚えている。)

 1989年の秋、私は仕事で役員に随行してアテネを訪れる機会があった。中央銀行の幹部とミーティングを行い、その日はその建物の中で夕食会に招かれたのだが、中層階のバルコニーに立つと、夕闇迫るアテネの街の背後にアクロポリスの丘が広がり、パルテノン神殿がライトアップされていた。なるほど、ギリシャ人のご先祖様は偉大だったと、そう思う他はなかったのだが、それは現代のギリシャという国の姿がいささかみすぼらしく見えたことの裏返しでもあった。

 紀元前の歴史の終焉と共に、ほとんど世界から忘れ去られてしまったような、この地域だけ時計がゆっくりとしか進まなかったようなギリシャ。それはヨーロッパ文明発祥の地であったのかもしれないが、今の姿は「地中海の外れの開発途上国」に近いような、そんな姿であった。実際に、観光業の他にはこれといった競争力のある産業がなく、私の仕事の上でも、この国の外貨繰りは当時からハラハラして見ていたものだ。統一通貨・ユーロが発足した時も、ギリシャはユーロに加盟できるのか、その後も加盟を維持できるのか、という懸念はずいぶんとあったのだが・・・。
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 現在のギリシャは、労働人口の約四分の一が公務員だそうだ。前述の軍政崩壊後にPASOKとNDが政権交代を繰り返す中で、政権を取った側がその都度公務員を増やして行った結果だという。加えて政府の徴税能力が低く、アングラ経済の比率が大きいのもこの国の病巣である。総選挙の年に限って税収が落ち込むというのも奇妙な話だ。本来税金として徴収されるべきカネが総選挙の年に何に使われてきたのかは、推して知るべしであろう。

 1997年のアジア通貨危機の際、IMFの緊急支援を受けたタイ、インドネシア、韓国では、通貨価値の安定のために、金利の引き上げと政府部門の大リストラという荒療治を余儀なくされた。不況下での高金利政策はショックを過度に大きくしたとも言われているが、結果的にアジアの国々は外貨借入による成長路線を大きく切り替え、国内貯蓄の増加、外貨借入の圧縮により、経常黒字の国へと転換していった。それに対して、ギリシャはこれからどのようにして構造転換を図っていくのだろう。

 だがこれは、私達にとって決して他人事ではない。

 歴代の政権によるバラマキによって財政赤字が極端に肥大化している状況は、我国の場合はギリシャの比ではない。財政赤字はGDP比180%を超えており、国の歳出の25%は国債の利払いだ。欧米とは違って日本は国債の殆どを国内で消化しているから問題ないなどという議論があるが、1,400兆円の個人金融資産の内、郵貯や銀行預金を通じて既に大量の国債が買われている。国内の貯蓄で日本国債を支えきれなくなった時、待っているのは通貨安とハイパーインフレ、そして高金利だ。国際金融市場は最も弱いところを突いてくるのである。

 こんな時に政権与党は迷走し、野党第一党は分裂し、誰が責任を持ってこの国のリーダーシップを取っていくのか、我国の政治の混迷は目を覆うばかりである。「この国民にしてこの政治あり」と言う他はないのだが。

 そう言えば、衆愚政治(Ochlocracy)というのも古代ギリシアで生まれた言葉である。

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