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大国の論理・小国の意地 (1) [読書]


 夏は、書店に戦争物の本が並ぶ季節である。二つの原爆の日、終戦の日、そして始まった占領時代。お盆の時期とも重なって、戦没者を悼み、戦禍を振り返る企画が夏の風物詩のようにやってくる。そんな中で、金曜の夜の会社帰りに一つの文庫本に目がとまった。

 1961年から68年まで、米ケネディ政権とジョンソン政権で国防長官を務めたロバート・マクナマラ(1916~2009)をはじめ、当時ベトナム戦争に関わった米国の元閣僚・外交官・軍人ら13人と、同様のポジションで同戦争に関わったベトナム人13人が、1997年6月20日から23日までの4日間ハノイのホテルに集まり、ベトナム戦争を振り返る会合を開いた。

 戦争の開始から32年、戦争の終結を定めたパリ協定から24年の歳月を経て実現した「ハノイ対話」。かつての敵同士が一つのテーブルに着いて、第二次大戦後の世界最大の地域紛争となったベトナム戦争を振り返るという画期的なこの会議では、
 「お互いの戦争の目的は何だったのか?」、
 「この戦争はなぜ回避できなかったのか?」、
 「始まってしまったこの戦争はなぜ早期に終結できなかったのか?」、
 「話し合う機会をなぜ逸したのか?」
といったことが、冷静に、しかし熱く議論された。そして、そこで明らかになったのは、戦い続けた両国の間での相手に対する驚くべき無知、無理解、誤認であった・・・。

 米国側ではプロジェクト「ミスト・オポチュニティ(Missed Opportunities? = 機会を取り逃がしたのか?)」と呼ばれたこの会議の内容は、翌年にNHKスペシャルで98年夏の戦争関連特番として放映され、そのディレクターを務めた東大作氏はその番組を元にした本を2000年3月に岩波書店から上梓した。その復刻版として文庫本になったのが、この夏、書店の店頭に並んでいる『我々はなぜ戦争をしたのか - 米国・ベトナム 敵との対話』 (東大作 著、平凡社ライブラリー)である。

 私は当時海外勤務をしていたことから、NHKスペシャルの番組は見ておらず、岩波書店版の本の存在も知らなかったのだが、今回はこの文庫本に出会い、興味深く読むことができた。
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 ベトナム戦争は、私の年代にとってはかなりの程度、同時代史である。といっても、日本の敗戦を契機に独立の気運を高めたベトナムが、宗主国フランスとの間で繰り広げたインドシナ戦争と、その和平協定である1954年のジュネーブ協定、そしてそのジュネーブ協定に調印しなかった米国が、北緯17度線よりも南に傀儡政権(いわゆる南ベトナム)を作らせたのは、まだ私が生まれる前のことだ。

 あくまでも南北統一を目指す北ベトナムは、1959年に南ベトナムの武力解放を決意。翌60年には南ベトナム解放民族戦線(National Liberation Front (NLF)、当初はベトコンと呼ばれた)が結成され、ジュネーブ協定を無視した南ベトナム政権に対するゲリラ活動を本格化させる。広義のベトナム戦争の始まりである。

 これに対して1960年に誕生した米ケネディ政権は、共産主義化の動きが東南アジア各国に伝播するというドミノ理論に怯え、南ベトナム軍に派遣する「軍事顧問団」や軍事物資の支援を一気に増強。しかし、独裁と圧政、腐敗で悪名高かった南ベトナムの大統領ゴ・ディン・ジエムは1963年の軍事クーデターで殺害され、その20日後にはケネディ自身もダラスで暗殺される。小学校に上がったばかりの私の記憶に残っているのは、「勤労感謝の日」の朝に行われた日米間のテレビ宇宙中継実験で最初のニュースとして飛び込んできた、”JFK暗殺”を伝える白黒のテレビ画面あたりからである。

 そのJFKの後を継いだジョンソン政権時代に、米国とベトナムはいよいよ直接対決への道を進む。1964年夏のトンキン湾事件は、我家では大阪から東京への引越があったりしたので覚えていないが、翌65年2月の北爆開始の時の新聞の大見出しは明確な記憶として残っている。翌月には海兵隊が、そして夏には陸軍部隊が投入され、戦線は急速に拡大することになった。
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 その頃、小学3年生の私は夏休みで湘南の国府津にある母の実家に長く逗留していたのだが、米軍による大量の地上部隊投入を報じる新聞を広げながら、大叔母が
 「これはアメリカがいけないねぇ・・・・」
と呟いた。子供心にも国際社会とは無縁の存在に見えた大叔母までもがベトナム戦争を憂慮するとは、これはよほど大変な問題なのだと私は思ったのと同時に、アジアの小国ベトナムに対して圧倒的な国力を持つ米国が大量の兵力を投入することに、私の周囲の大人たちが総じて批判的であったことを感じたものだった。それはそうだろう。同様の爆撃を受けて日本が敗戦してから、まだ僅か20年ほどの頃なのだ。

 大量の兵力を投入しながら、メコン・デルタと密林を舞台にしたゲリラが相手の戦争で、米軍にはなかなか戦果が上がらない。一方で、南ベトナム領内ではNLFによる無差別テロが頻発し、そのNLFに対してはラオス領内を通るホーチミン・ルートを経由して北ベトナムが支援物資を送り続ける。米国内でも北爆の開始と共に始まっていた反戦運動が、1967年頃には大きな社会運動へと広がることになった。

 そして、1968年1月の旧正月(テト)の深夜にNLFが南ベトナム軍・米軍に突如として仕掛けたテト攻勢と呼ばれる大攻勢。「戦争はうまく行っている」というそれまでの米軍の公式発表に米国民の疑念が高まると共に、その最中に南ベトナムの警察庁長官が、捕縛したNLFの(まだ裁判にもかけられていない)将校をテレビカメラの前で射殺したことは、世界に大きな衝撃を与えた。そして同年3月に米軍が非武装・無抵抗の村民504名を機関銃で虐殺した、いわゆるソンミ村虐殺事件が明るみに出ると、「この戦争に大義はあるのか?」という声が米国の内外で急速に高まっていく。

 マクナマラ国防長官は同年2月に辞任。翌3月にジョンソン大統領は再選を断念。メキシコ五輪が開催されたこの年、私は小学校6年生になっていたが、「テト攻勢」という文字や、ソンミ村虐殺事件を報じる新聞、そしてキング牧師やロバート・ケネディの暗殺を伝えるテレビのニュースなどが記憶に残っている。米国にとっては実に多難な一年だった。

 日本で「ベトナムに平和を!市民連合」、いわゆるベ平連の活動が一番盛んだったのはこの時期だろう。「団塊の世代」が大学生だった頃だ。「ベトナム戦争ハンタ~イ!」と叫ぶデモ行進は渋谷の街のあちこちで行われていた。それはやがて大学紛争の時期にも重なっていき、米国からの直輸入のようにしてフォークソングが流行ったものだ。

 1969年に入ると、ベトナム戦争は主役が交代する。米軍のベトナムからの「名誉ある撤退」は止むを得ないとする一方で過激化する国内の反戦運動を問題視し、「法と秩序の回復」を訴えて当選したニクソンが大統領に就任。キッシンジャーを国家安全保障担当大統領補佐官に任命して、ベトナムからの段階的な兵力削減を進めつつ、北ベトナム政府との秘密和平交渉を進めさせた。対する北ベトナムでは、長らく独立戦争を率いてきたホー・チ・ミンがこの年の9月に79歳の生涯を閉じている。

 1970年代には世界の力関係も変わった。中国とソ連は既に仲違いをしており、その中国を牽制するためにブレジネフのソ連は米国との間でデタント(緊張緩和)を模索。他方、中国も米国との関係修復を図り始めていた。北との秘密和平交渉を優位に進めたい米国は、「ホーチミン・ルート」や「シアヌーク・ルート」を遮断すべく1970年4月にカンボジアへ侵攻。(北ベトナム軍の拠点を叩いて米軍が撤退した後、カンボジアでは泥沼の内戦が続いた。) しかし、ベトナム戦争で撒き散らしたドルの信任が失われ、ニクソンは翌年8月にドルの兌換停止と輸入課徴金の導入を宣言(いわゆる「ニクソン・ショック」)。私が中3の年の、暑い夏のことである。

 そのニクソンは翌1972年4月に中国を電撃訪問して北ベトナムを揺さぶる一方、同5月には北爆を再開して強面に出る。この年の12月にハノイを狙って行われた北爆(いわゆる「クリスマス爆撃」)では、反戦を訴える米国のフォーク歌手、ジョーン・バエズが爆撃の最中にハノイのホテルの防空壕でギターを抱え、避難中の各国大使館員らと共に歌い続けたことが大きく報道されていた。

 そして1973年1月27日の、ベトナム和平に関するパリ協定の締結。翌々日にニクソンは「ベトナム戦争の終結」を宣言し、3月29日には米軍の撤退が完了した。この年の秋には第四次中東戦争が勃発し、世界は初めての「石油危機」を体験する。ニクソンはウォーターゲート事件によって翌年8月に辞任に追い込まれた。

 ドル危機と石油危機後の不況の中で、パリ協定に違反した北ベトナムによる南への侵攻があっても、米国にはそれを阻止するだけの余力がない。米国は動かないと見た北ベトナムは、悲願の南北統一を目指し、1975年3月に南への全面攻撃を開始。僅か一ヶ月で首都サイゴン(現ホーチミン市)に迫り、4月30日にそれは陥落する。
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 敵軍迫るサイゴンを脱出しようと、南ベトナム政府関係者が米軍・海兵隊のヘリコプターに我も我もとすがる、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』さながらの地獄絵や、赤地に星のマークの旗を立てた北ベトナム軍の戦車が大統領府に突入する映像は、高校を卒業したばかりの私を釘付けにしていた。戦争が終結する瞬間をテレビがここまでリアルタイムに中継したのは、かつてなかったことだ。(そんなことにばかり関心を持っていたから、私はものの見事に浪人していたのである。)

 ともあれ、私にとって同時進行形のベトナム戦争とは、こんな風だった。

(to be continued)

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