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大国の論理・小国の意地 (2) [読書]

 今回読む機会を得た、『我々はなぜ戦争をしたのか - 米国・ベトナム 敵との対話』 (東大作 著、平凡社ライブラリー)に話を戻すことにしよう。

 ベトナム戦争の和平を定めた1973年1月のパリ協定から24年の歳月を経て実現した、米国とベトナムの「ハノイ対話」。四日間続けられた熱い討議の口火を切ったのは、やはりロバート・マクナマラだった。

 1961年から8年間にわたって彼が米国防長官を務めたために、この戦争は「マクナマラの戦争」とも呼ばれた。1995年に世に出した『回顧録 - ベトナムの悲劇と教訓』において、マクナマラはベトナム戦争が米国の犯した過ちだったと率直に認めたが、それには賛同も寄せられたものの、右からも左からも数々の批判を受けていた。それだけに、彼をはじめとする米国側には、なぜ戦争を回避できなかったのか、なぜ早期に収拾できなかったのか、その「両国が共に取り逃がした機会」について議論し、結論を米国だけの過ちとはさせたくないとの意図が始めからあったのだろう。
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 対するベトナム側は社会主義国である。「人民の政府」を標榜するこうした国は常に無謬性にこだわり、自らの過ちを認めようとしないものだ。それだけに、この「ハノイ対話」は初日早々から白熱した議論となった。(以下、青字部分は本書からの引用。)

チャン・クアン・コ(当時、北ベトナム外務省対外政策局長)
 アメリカは四つの基本的な問題についてベトナムを誤解していました。それがアメリカの誤った情勢判断につながったのです。その四つとは、
 ①ベトナム統一こそが、我々ベトナム人の最終目的であったことを理解できなかった。
 ②南ベトナム解放民族戦線の目標が、国家の解放と独立であったことを理解しなかった。
 ③ベトナムと他の諸国の伝統的な関係を理解できなかった。 (中略) ベトナム革命は確かに共産主義革命であったが、それは周辺の国々まで共産化しようとするものではなかった。
 ④ベトナムとソ連および中国との関係を理解できなかった。我々は相互依存関係にあったが、決して、中国やソ連から指示・命令されるものではなかった。 (中略)
 私の考えでは、ベトナムは一つ大きな過ちを犯しました。それは1945年の8月まで、アメリカこそが植民地主義に反対する唯一の大国であると考えていたことです。

ニコラス・カッツェンバーク(当時、米国務次官)
 ベトナムの皆さんに反論したい。 (中略) アメリカが第二次大戦以後、一貫して植民地主義に反対してきたのは誰の目にも明らかではないですか。

グエン・ディン・ウォック(当時、北ベトナム防空軍将校)
 (中略) 1963年から64年にかけて、南ベトナムでは14回もクーデターが起こりました。その度にあなた方は、ゴ・ディン・ジエム政権を必死に救ったのです。なぜあなた方は、腐りきったジエム政権を支持し続けたのですか。アメリカの言いなりになる傀儡政権が欲しかったからじゃないですか。これは植民地主義ではないのですか。

ダオ・フイ・ゴク(当時、北ベトナム外務省対米政策局長)
 我々の戦争の目的は、独立と自由でした。自由、独立、国家の統一、それがベトナム国民の共通の願いでした。だからこそ、我々はこの戦いを受けて立たなければならないと考えたのです。しかし、あなた方アメリカは、そうしたベトナム人の気持ちを理解することができなかった。我々を国家としてでなく、冷戦というゲームの中の駒として見ていたのです。

ロバート・ブリガム(米、バッサー大学準教授)
 (中略) アメリカは確かにアジアについて無知だったかもしれません。しかし無知の責任の一端はベトナム側にもあるのではないですか。あなた方はアメリカの政策責任者に対して、ベトナムが何を目指しているかということや、平和的解決を望んでいることなどを、全く説明しなかったのではないですか。

グエン・カク・フイン(当時、北ベトナム外務省対米政策局員)
 あの状況でどう説明しろというんですか。我々は、アメリカと戦争を始める前に、10年間もジャングルの中でフランスとの独立戦争を続けていたんです。 (中略)

ロバート・マクナマラ(当時、米国防長官)
 (中略) 私は、あなた方にもやはり落ち度があったと言いたい。あなた方は当時、今日のように我々に説明すべきだったのです。ソ連や中国の手先となって動くつもりはない、とはっきり言うべきだったのです。

 戦争を戦う敵の意思や目的は何なのか。
 この最も基本的な情勢判断さえ、双方は全く異なる認識を持っていたことを対話はあからさまに暴露している。

 こうした当時の情勢判断に関するやりとりに続き、議論は「戦争回避の道はなぜ消えたのか」、「なぜ全面戦争に突入したのか」、「なぜ秘密和平交渉は失敗したのか」についても切り込んでいく。中でも圧巻は、1965年から68年までの、ベトナム戦争が最もエスカレートしていた時期に米国から働きかけられた、延べ7回にわたる秘密和平交渉に関するくだりである。
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チャン・クアン・コ(当時、北ベトナム外務省対外政策局長)
 65年から67年にかけて、我々は常に北爆という脅迫を受けながら、和平交渉を持ちかけられていました。こんな状況で交渉に応じることなど絶対にできません。我々に何の迷いもありませんでした。ただ拒否するのみです。
 一方でアメリカは、入れ替わり立ち替わり様々な仲介人を送り込んできました。 (中略)
 あなた方は、世界中に向かって、交渉によって平和を求めているのはベトナムではなく、アメリカなんだと宣伝したかったのでしょう。あなた方は、北爆という最も非人道的な行為を正当化するために、あらゆる手段を使って「戦争を欲しているのはベトナムなんだ。アメリカは平和を求めている。しかし、ベトナムがそれに応じないから北爆を続けざるを得ないのだ」と世界の人々に印象づけようとしたのです。 (中略)

ロバート・マクナマラ(当時、米国防長官)
 冗談じゃない。アメリカの交渉への努力は、決してプロパガンダのためなんかじゃありません。 (中略) 我々はあなた方の国を破壊し、ベトナム人を大量に殺害し、かつアメリカ人にも大きな犠牲を与えたあの戦争を一日でも早く終わらせたいと考えていたのです。だから本気だったか、そうでないかなど議論する気もありません。本気だった、そして失敗した。それが事実です。

ニコラス・カッツェンバーク(当時、米国務次官)
 チャン・クアン・コ氏に伺いたいのですが、我々が真剣に和平を模索していると受け止めてもらうためには、一体どうすればよかったのですか。

チャン・クアン・コ
 簡単なことです。北爆をやめる。それしかないでしょう。爆弾を際限なく落としておきながら、和平案を信用しろというのは、どだい無理な話です。ましてや、地上軍もどんどん送りこんでいる状況での和平交渉など、信用できるはずがありません。

ロバート・マクナマラ
 ベトナムの皆さんに聞きたい。65年の終わりから68年の3月まで、ベトナムの人々、特にハノイに住む人々はものすごい数で犠牲者を出し続けました。 (中略)
 一体なぜあなた方は、このような膨大な人命の損失に心を動かされなかったのですか。目の前で国民が死んでいく中、犠牲者を少しでも少なくするために交渉を始めようという気にはならなかったのですか。 (中略)

チャン・クアン・コ
 マクナマラさん。あなたは、ベトナムの指導者が、ベトナム人民の犠牲と苦しみを省みなかったとおっしゃりたいんですか。だから我々が、和平交渉に応じなかったとでも言うんですか。 (中略) 
 いいですか。ベトナム戦争は、ここベトナムの地で行われたという事実を忘れないでもらいたい。ベトナムの国土が荒らされ、ベトナムの人民が死んだのです。戦争の痛みを最も感じたのは、我々だったのです。 (中略) 我々が戦争を続けたい理由が一体どこにありますか。
 なぜ、なぜ我々が、あれほど激しい爆撃を受けても、交渉の呼びかけに応じなかったか、あなた分りますか。
 それはですね。独立と自由ほど尊いものはないからです。ベトナム人は、奴隷の平和など受け入れないんです。

 この最後の点は、四日間の討議が終わってもなお、マクナマラには理解ができなかったようである。だが、マクナマラの発言は、北爆による膨大な犠牲者の発生について、自分達の爆撃によって犠牲者が出ているというよりも、ベトナム人が何か天災にでも遭っているかのような物の言いようで、同じアジア人として、そうすんなりとは聞き流せないものである。

 要は、自国の本土で戦争をしたことのない国民には、想像が及ばないことなのだろう。「空爆によって犠牲者が増え続けているのだから、早く和平を交渉すればいいではないか。」 このように、一見合理的な考え方のようでいて、実は極めて独善的な思想が根底にあるところに、米国が世界各地で反感を買う一つの原因があるように、私は思う。

 以上、引用したのは本書のごく僅かな部分である。

(to be continued)

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