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自由(まま)投票 [読書]

 9月に入っても厳しい暑さが続いている。朝の駅では線路端で虫の声が盛んなのに、東京は明日もまた猛暑日との予報だ。

 この暑さの中、民主党は現首相と「陰の実力者」が二週間後の党代表選挙で正面から対決することになった。この時期に政争を国政に優先させる理由が全くわからないが、「挙党態勢」や「トロイカ指導」という意味不明の言葉で煙にまかれるよりは、この際シロクロはっきりさせた方がいいという声が多いのも確かなようだ。

 伝えられるところ、今回は二人の候補者に対する「民意」にかなり明確な差が出ている。そんな中で、特に小選挙区から選ばれた衆議院議員たちが、自らが属するグループの論理を優先させるのか、「民意」を強く意識するのか、これは事後的に分析してみると面白そうである。(その「民意」にも地域差はあるのだろうが。)

 議会で採決を行う場合、米国では個々の議員達に対していわゆる「党議拘束」というものがないそうだ。だから、オバマ政権が議会に提出した医療制度改革法案に対して、民主党議員であっても個人の判断で反対なら反対票を投じる。今やインターネットの時代だから、各議員に対しては選挙区の有権者から容赦なくメールが届き、各議員がどの法案にどんな票を投じたかはネットで簡単にわかる。議員はそうした「有権者の目」を意識しながら判断を下し、その結果反対票を投じても、日本における「造反議員」のような扱いを受けることはないという。

 それが米国型の議会制民主主義であるとすれば、何につけてもまずは党内の派閥(民主党の場合は「グループ」)による拘束がある、というのは非常に日本的なそれである。現代の国会議員にとってすら、政策に関する主義主張の自由は組織の論理に劣後するものなのだ。そういう社会のあり方というのは、どこにルーツがあるのだろう。

 建武元(1338)年8月、京都鴨川の二条河原に、誰が書いたか、後醍醐帝による「御新政」以後の混沌とした世情を風刺するリズムのいい文書が掲げられた。世に名高い「二条河原の落書」である。

 此比(このころ)都ニハヤル物  夜討強盗謀綸旨(にせりんじ)
 召人(めしうど)早馬虚騒動(そらさわぎ)  生頸(なまくび)還俗(げんぞく)自由(まま)出家
 俄大名(にわかだいみょう)迷者  安堵恩賞虚軍(そらいくさ)
  (中略)
 譜第非成ノ差別ナク  自由狼藉ノ世界也
 (以下省略)
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 この中で、「自由出家」や「自由狼藉」という言葉が目に留まる。前者は、出家したと称して大番役(京都の宮廷の警護)を逃れようとする御家人が後を絶たないため、鎌倉時代には幕府の許可を得ない出家が禁じられていた、それが守られていないという意味だそうだ。また、治安を守る者がいないのをいいことに、やりたい放題の狼藉をすることが後者である。いずれも「勝手気まま」、「やりたい放題」、「何でもあり」というのがここでいう「自由」の意味であり、従って「けしからん」というニュアンスを込めた言葉なのだという。

 この国の歴史の中で、既存の社会の秩序とは無関係に、或いは意図的に秩序からはみ出して生きる新種の人々が登場し、それが社会を変える可能性を持っていた時代が三つあった。その最初の時代である南北朝時代を、そうした新種の人々に光を当てながら掘り下げたのが、『自由にしてケシカラン人々の世紀 - 選書日本中世史2』 (東島 誠 著、講談社選書メチエ)である。(因みに、残る二つの時代とは、著者によれば戦国時代と幕末維新の時代である。)
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 本書でいう「自由にしてケシカラン人々」とは、大衆芸能として新たに登場した猿楽や田楽を見せて諸国を旅する芸能民であったり、或いは各地を歩いて勧進聖(かんじんひじり)などと呼ばれた遊行僧であったり、年貢の運送を担う者であったり、いずれにしても一箇所に定住しない人々のことだ。既存の社会秩序から外れて生きていることを誇示するために、彼らはみな奇天烈な風体をしていたという。それが、貴賎を問わずこの時代の人々の注目を集めたようだ。

 「四条橋復興の勧進興行(チャリティーコンサート)の場面で見物席が倒壊し、死者百余人を出す大惨事となった。その見物客の中に、天台座主(ざす)梶井宮尊胤法親王と将軍足利尊氏が含まれていたことが(『師守記』という当時の日記に)記されている。さらに『太平記』によれば、関白二条良基もその場にいたということだ。」
 (前掲書)

 なかなかユーモラスな光景を想像してしまうが、こうした興行一座は移動しながら各地の権力者や名士とコネクションを持ち、諸国の事情に明るく、中には土木や建設の技術を持つ人々もあったという。15世紀になると、飢饉のたびに都に難民が押し寄せる中、興行のある場所で粥の炊き出しを行い、有力者をスポンサーとする(橋の修復などの)建設工事を請け負い、それが一時的にせよ難民に仕事を与えることで都市の混乱を防ぐ役目を担っていたとも。そして鎌倉時代の中期以降、次第に勃興していく流通経済や貨幣経済は、こうした非定住型の人々の存在を抜きには語れないようである。

 この他にも、荘園体制を下から掘り崩していくような、支配側からは「悪党」と呼ばれた新興勢力や、海賊行為を働いた連中もあった。それらの総体が、「自由にしてケシカラン人々」なのだろう。確かにそれは、既存の社会を大きく変えていく可能性を持っていた。
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 だが、新たな混乱は新たな秩序もまた求めようとする。本書が興味深いのは、一般にはそのあたりから社会の崩壊が始まったと思われている応仁・文明の乱(1467~77)以降の時代が、混沌としつつも近世的な秩序を作りつつあり、社会の更なる解放という方向ではなく、むしろ閉塞に向かい始める時代であったと指摘していることだ。

 今から思うと、私達が学生の頃はまだマルクス歴史学の影響が強く残っていて、室町時代後期の「惣村の成立」に入ると、先生の話には力がこもっていたものだった。正長の土一揆(1428年)、山城国一揆(1485年)などは、まるで人民による「臨時革命政府の樹立」であるかのような話ぶりだった。

 だが、著者によると、惣村が守護勢力から一定の「自治権」を獲得した代わりに、公権力化した惣村の中では新しいヒエラルキーが作られ、統治がむしろ厳格なものになっていったという。

 「中世後期に高揚する惣村自治とは、より大きな『オオヤケ』に抗する小さな『オオヤケ』を作り出しただけであって、いったんより大きな『オオヤケ』に呑み込まれれば、それは支配にとってきわめて親和性の高いシステムとなる。それゆえそれは、ヴェーバー風に言えば、ライトゥルギー的な支配の末端機構へと、容易に転化していったのである。」
 (前掲書)

 一方、15世紀の飢饉の時には難民が容易に流れ込んだ京都のような都市はどうか。戦国時代に入り、都市民が「町」単位の自治を獲得するようになると、それとの引き換えで他所者に関する情報提供や犯罪者の捜査などに「町衆」が協力することになり、異分子にとっては生きにくい場所となっていったと述べられている。そして、応仁・文明の乱であれほど混乱・荒廃したイメージのある時代に、国全体の生産力は上がり、経済は拡大に向かったと見られているのである。

 間もなく戦国時代に入ろうとする日本。群雄割拠と下克上の世を迎えていくのだが、中世に「自由にしてケシカラン人々」が跋扈した社会は、惣村にしても都市にしても次第に統制色が強くなり、そういう人々が社会の異分子として「自由に」生きていくことが難しくなっていく。

 そして迎えた戦国時代は、既に形作られつつあったそのような社会の構造を破壊するものではなく、それを受け継ぎながら近世へと「脱皮」していくための一つの過程であった、というのが本書の見方である。更に秀吉の時代になると、中世には勧進聖の仕事だった架橋も被災民の救済も、そして京都の方広寺に大仏殿を建てるような宗教的行為でさえも公権力の役目となる。「自由でケシカラン人々」によるネットワークが世の中の隙間を埋めた時代は過去のものになっていった。
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 さて、今の日本はどうだろう。「戦後の民主化」を経て、今の我々は「ケシカラン」というニュアンスを込めた言葉遣いではない、近代以降の概念としての「自由」を前提とした社会体制の中に生きている。だが、中世後期の惣村や自治都市が、一定の範囲内での自治権と引き換えに統制色のある閉塞した社会を形作っていったのとある意味同じようにして、国民は「自己責任を問われずに済む気楽さ」と引き換えに「自分でモノを考えて行動する自由」を権力者に渡してしまう、実に閉塞した社会を続けてきてしまったのではないだろうか。

 「脱官僚支配」や「政治主導」を叫ぶのであれば、それを実現するものは何よりも政治をきっちりとモニターする国民の目である。それは、「誰かにお任せ」ではなく、「場の空気に従うこと」でもなく、「自分でモノを考えること」なのである。

 自民党政治へのアンチテーゼとしてそれを唱え続けてきたのであれば、自分達のリーダーを選ぶのに、個々人は何をどう考えてどんな結論を出すのか。国会議員、一般党員、サポーターを含めた民主党の人々は、自らの行動が自らに跳ね返って来ることを心すべきであろう。

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コメント 2

T君

 日本人が「自分のことしか考えない」という国民になってしまったということなんでしょう
 今日の公開討論などは。政治家が「自分のことしか考えなくなった」という証明をしたようなものです
 昔は「近頃都ではやるもの」のような、マスコミもない民意が、700年近くたった日本人に伝わっていることも、それなりの驚きですが、
 
by T君 (2010-09-03 04:14) 

RK

応仁・文明の乱の時代を描いた歴史書『応仁記』は、当時の世相を 「只天下破レバ破レヨ、世間ハ滅ビバ滅ビヨ、人ハトモアレ、我身サヘ富貴ナレバ・・・」という表現で描いていますが、これもまた今に通じるものがありますね。それは別に日本だけに限ったことじゃないんだろうけど。
by RK (2010-09-03 11:11) 

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