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光を求めて [美術]


 10月最初の日曜日を迎えた。

 二日前の金曜日頃は、日曜日から天気が崩れるとの予報だったが、今日は家内と近所の「日曜朝市」に出かけ、食料品を買い込んで帰ってきた後も、青空がまだ続いている。天気の進展が少し遅れているのだろうか。いずれにしても、日中は雨に降られることもなさそうだ。それならば、せっかくの日曜日、散歩がてら絵でも見に行こうか。家内とそんな話になって、昼前から出かけることにした。

 メトロを乗り継いで渋谷へ。大勢の人々で賑わう駅前を抜けて、東急本店へと向かう。お目当てはBunkamura ザ・ミュージアムで開かれている『フランダースの光 - ベルギーの美しき村を描いて』という美術展である。

 入場して最初のコーナーに展示されている、アルベイン・ヴァン・デン・アベールという画家の『春の緑』という作品が、早くも目に留まる。もちろん油彩であるが、繊細なタッチと淡い色の重なり方が森の奥行きを感じさせるその絵は、どこか日本画を見ているようでもある。
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(アルベイン・ヴァン・デン・アベール 『春の緑』 1900年)

 前後の絵も、葉の落ちた雑木林の連なりや、見渡す限りの平地を蛇行しながらゆったりと流れる川など、農村の自然の風景を描いたものが多い。そこに再現されている空は、大体が雲に覆われていて、画面の端の方でかすかに陽の光が斜めに漏れている。或いは、そうした農村風景が一面の雪に覆われ、針のような木の枝が灰色の空を刺す、ふとブリューゲルの画を連想するような作品も並んでいる。

 私たちは日本にいて、今日もまだ半袖で歩いているが、10月といえば、緯度の高いヨーロッパではとんとん拍子に日が短くなっていく頃だ。もうだいぶ肌寒くなって、晴天の日が少なくなっていく。あの長い冬が遠からずやって来るのである。展示された絵を眺めながら、そんなことを何となく思い出していた。

 ベルギー北部のフランダース(フランドル)地方。その西寄りにゲントという都市がある。19世紀の終わり頃から20世紀の初めにかけて、そのゲントの近郊のシント・マルテンス・ラーテムという村に、フランダースの芸術家が移り住んで絵画や彫刻などの芸術活動を熱心に展開したという。19世紀は大陸ヨーロッパにおける産業革命の時代で、ゲントのような都市でも生活環境が大きく変わっていった。芸術家たちがそうした都会の喧騒を離れ、自然が豊かに残る農村の光の中に自らの活動の場を求めていったのは、パリの画家たちにとってのバルビゾン村と同じような存在であった、という説明を読むと、なるほどと思う。

 それにしても、この時期のフランダースの画家たちは、日本では非常にマイナーな存在である。私にとっても今日初めて名前を聞き、初めてその作品に触れた画家ばかりだ。その中で、冒頭に挙げたアルベイン・ヴァン・デン・アベールの次に目を引いたのはエミール・クラウスという画家である。1883年からこのラーテム村に生涯住み続けたクラウスは、(本家のフランスでは既に最盛期を過ぎていた)印象主義の手法によってこの村の豊かな自然を光豊かに描いた、その先駆者だという。しかし、それは単なる印象主義の模倣ではない。『ピクニック風景』と題された大きな絵には光あふれる自然が瑞々しく描かれているが、その精緻な筆使いはまるでカラー写真のようだ。いつまでも眺めていたくなる絵である。
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(エミール・クラウス 『ピクニック風景』 1887年頃)

 ベルギーは大国に隣接する小国である。元々は17世紀半ばにハプスブルグ・スペインから独立を勝ち取ったネーデルランド王国の一部であり、ベルギー王国としてそこからの分離独立を果たしたのは1830年のことだ。ラーテム村が”芸術家のコロニー”となるのはそれから凡そ半世紀後のことだが、20世紀になって印象主義の画家たちが腕をふるったのも束の間、第一次大戦が勃発し、ベルギーはドイツの侵攻を受ける。その大戦が終わり、疎開していた画家たちがこの村に戻ると、絵画の世界はドイツから表現主義が、そしてフランスからはキュビズムの流れがやってきて、“ラーテム派”の画家たちもその影響を受けていく。

 今回展示されている絵画の最後の方は、そうした流れの中で風景が単純化され、人物像が様式化され、テーマが幾何学図形のようになった、そんな作品が並んでいる。そして、ラーテムにおける芸術家たちの活動は、その1920年代に自然消滅していったという。それもまた、バルビゾン村と同じ運命だったのだろう。
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(フリッツ・ヴァン・デン・ベルグ 『日曜日の午後』 1924年)

 大学を卒業する直前に、私は友人と三人でヨーロッパを貧乏旅行したことがある。バックパックを担ぎ、鉄道の二等車で移動し、各地のユースホステルや安宿を泊まり歩くという、当時の学生のお決まりのようなパターンだった。三人で三週間ほど行動を共にし、最後の一週間は個々に旅を続けることにしていた。

 当時まだ共産圏だったチェコスロヴァキアのプラハから列車で西ドイツのニュールンベルグに出たところで友達と別れた私は、南ドイツを抜けてスイスで雪の山を眺めて数日を過ごした後、バーゼルからブリュッセル行きの列車に乗り、夜遅くゲントのユースホステルに部屋を求めた。食堂はもう終わっていたが、パンとスープだけなら何とかなると、先方の好意で簡単な食事を出してくれたのがありがたかった記憶が今も残っている。三月中旬の、ヨーロッパはまだ寒い頃だった。

 一夜が明けると、ゲントの街中はまさに古都の佇まい。私の目には時間がゆったりと過ぎていく街に見えたが、産業革命の時代にはそれでも都会の喧騒があったのだろう。その近郊にあるラーテム村は、今でもフランダースの人々にとっては最も住みたい土地の一つなのだそうである。

 今日になってたまたま思い立って出かけた美術展が、思いがけずも若い頃の一人旅とつながった。物事との出会いというのは、何とも不思議なものである。

 ラーテム村の世界をゆっくりと鑑賞した後、NHKの放送センターの前から原宿駅を抜けて新宿御苑まで、家内と散歩をした。気がつけば街路樹のハナミズキが赤い実をつけている。そして、吹く風に金木犀が香り出した。今日の太陽は思いの外元気だったが、それでも午後三時を回るとその光は早くも赤味を増してくる。そして、西の空で黄金色に輝くあの雲の向こうには、きっとまたもう一つ、秋がある。

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