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拡散する「自由」 [世界]

 このところ、中東・北アフリカ発のニュースが連日トップを飾っている。

 失業中の青年の焼身自殺に端を発したチュニジアの「ジャスミン革命」。そして28年に及ぶムバラク政権をとうとう倒してしまったエジプトの政変。その原動力となった民衆による反政府デモはイエメン、ヨルダンへと連鎖し、今週はその動きが更にバーレーンやイラン、そしてリビアにも波及している。

 携帯電話やインターネットで世界が同時に繋がる時代。今回の反政府デモの連鎖も、twitterやフェイスブック、ウィキリークスなど、ソーシャルメディアの果たした役割が極めて大きいとされる。一昔前ならば相応のスピード感をもって対応すれば当局が封じ込められたようなことも、今ではソーシャルメディアによってそれこそ「人の口に戸は立たない」状態になっている。中国などはこうした新型メディアの検閲に膨大なカネと手間をかけているというから、独裁政権にとっては厄介な時代になったものである。
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 一口に「反政府デモの連鎖」といっても、既に報じられているように、噴出する不満の中味は強圧的な政権の存在から足元の生活改善まで、国や地域によって様々である。チュニジアやエジプトでは大統領の首の挿げ替えになったが、バーレーンのように少数のスンニー派がシーア派の国民を支配する首長国では、デモは君主制という国の在り方自体を揺るがしかねないものだけに、事態はより深刻だ。
 もともと若年層の多い人口構成ながら、アジアの新興国のようには工業化に成功しておらず、若年層の失業率が高い国々である。そこへ、先進国の金融緩和の余波を受けたこのところの食糧価格の高騰だ。不満は溜まりやすいことだろう。

 一方、こういう時になるときまって米国政府が振りかざすのが、「民主化」、「自由」、「人権」といった概念だ。人類共通の理念として地球上の全地域に当てはまるのが当然と言わんばかりだが、実は相手によって濃淡を使い分けている。

 チュニジアで騒ぎが始まった時、米国は最初から民衆蜂起に対してエールを送っていたが、それがエジプトに飛び火すると、米国のスタンスは及び腰だった。イスラエルと和平を結んだ重要な国に「イスラム化」されてはたまらないから、当初はムバラク退陣を必ずしも要求していなかったのだが、ムバラクの強硬姿勢が裏目に出て民衆デモが後戻りできないほどに拡大すると、反ムバラクが反米に繋がることを恐れた米国が慌ててムバラクに手の平を返したのは、誰の目にも明らかだった。

 そして今度はイランで反政府デモが始まり、イラン政府がそれを力で押さえつけようとすると、米国はそれこそ鬼の首でも取ったかのようにイランを非難し、お得意の「民主化」、「自由」、「人権」を叫び出している。それがどれほど胡散臭いものであるかを、自ら世界に知らしめたようなものだろう。要は米国の国益との兼ね合いで使い分けられている「民主化」、「自由」、「人権」に過ぎないのだから。

 イスラムの世界では、「宗教上の戒律」、「社会の規範」そして「世俗の法律」が三位一体なのだとよく言われる。政治と宗教が不可分で、コーランを筆頭とするシャリーアと呼ばれるものを法源にして全ての世俗の法律が定められるという。しかもその法源の中には、イスラム共同体の合意に代わるものとしてイスラム法学者の合意や、コーランに書かれていないことに対するイスラム法学者の判断が含まれるので、いわゆる民主主義の下で代議士を選ぶよりも、イスラム法に詳しい学者によって導かれる社会のあり方を是とすることになりやすい。
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 要は、ムスリムの人々が自分達のイスラム共同体を――それは彼らが理想とする、ムハンマドの死後の「正統カリフ時代」に存在したような共同体では最早あり得ないが――どのようにして行きたいかの問題であり、そこに「民主化」だの「自由」、「人権」だのを振りかざしたところで、ムスリムの人々にとってそれらにどんな価値があるのかは彼ら自身が判断すべきことなのだろう。

 イスラムの世界ではムハンマドが最後の預言者とされる。その彼が神から預かった啓示がコーランなのだから、「最後の預言者」の後に更なる預言者は現れない以上、これから先もコーランが書き換えられることはあり得ない。宗教生活も世俗の政治もコーランに忠実であらねばならないのがイスラムの世界なのだから、コーランに書かれたことだけでは対応できないような問題について、イスラム社会は今後も振り子のように揺れ続けていくはずだ。「原理主義」的な考え方と「現実路線」との対立である。しかしそれは、ムスリムではない人間がとやかく言うべきことではないだろう。

 近代以降、このあたりはイスラム世界の中でも模索が繰り返されてきた。いわゆる「イスラム色を薄める」ことに最も成功しているように見える一つの例がトルコだが、それだってケマル・パシャが革命によってオスマン帝国を打倒して以降、1990年代に民主政権に移行するまでは長く軍政を続けざるを得なかった。その「民主政権」も、イスラム政党が突出しないよう様々な手心を加えた多党制というのが実態なのだろうが、いずれにしてもそれはトルコが自国の歴史を通じて模索してきた方法なのである。世界中にマクドナルドの店があるのと同じような感覚で、世界共通の民主主義の形があるなどと考えるのは、思い上がりもいいところだ。
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 もう一つ、今回の一連の動きを見ながら私にとって引っかかるのは、「ソーシャルメディアによって人々は『自由』を手にした」、「IT革命がもたらした『自由』はもう後戻りができない」というような論調である。ソーシャルメディアは殆どが米国の産物だが、強圧的な政権の国々で、情報発信のスピードや人々にとってのアクセスの良さにおいて、既存のメディアにはない大きな威力を発揮したことは確かだ。

 しかし、それによってもたらされた「自由」とは何だろう。思想信条の自由、結社の自由、言論の自由、大いに結構。しかし、無責任な発言を世界中にばらまくことや、機密文書を勝手に暴露することが「やっと手に入れた自由」なのだとしたら、そんなことをするために人類は歴史を積み重ねてきたのだろうか。

 「『自由』という翻訳語はよくできている。それは自分に理由のあること、自分の行いに他人を納得させるだけの、しかるべき所以(ゆえん)のあることである。すなわち、『自由』とは『自分のしたいことをすること』ではなく、『自分がなすべきだと信じることを、まさになすこと』である。
 『したいことをする』というのは価値ではない。それは単なる欲にすぎない。したいことができるとき、何をするかが問題なのだ。」
 (以下、引用部分は全て、『語る禅僧』 南直哉 著、ちくま文庫)

 そもそも、「人は生まれながらにして自由で、権利において平等である。」ということの根拠はどこにあるのか。

 「こういう能天気なことを言うためには、『神様は人間をそのように造った』というような話にせざるをえない。アメリカの独立宣言に『造物主』が出てきたり、フランスの人権宣言に『至高の存在』が要請されたりするのは実に当然だ。」

 「神様が人間を『生まれながらにして自由と平等』に造ったというなら、生まれた後でそれを制限するものは、根本的にはすべて悪しき妨げにすぎないことになる。これを取り払い、そう遠くない将来、百億に達しようかという人類全部が、『自由と平等』を好きなだけ追求したら、地球が持たないのは必定である。『自由と平等』であろうとした結果破綻するという、馬鹿みたいなことになりかねない。」

 ここに引用した本の著者は、放っておけばこのように際限なく拡大してしまいかねない「神様発の人権」を、「立場」という言葉に置き換えてみることを提唱している。

 「『立場』というのは他人との関係で決まる人の位置である。ならば、その関係はまっとうな理由に支えられ、筋が通ったもので、何よりもお互いに納得ずくでなければならない。それを『道義』という。『自由』に優先するのはこの『道義』である。 (中略) 私に言わせれば、『自由』は所詮、『道義』を実現するための条件にすぎない。」

 「大切なのは『一律平均的平等』ではなくて『公正さ』だと私は思う。条件の違いは当然として、そこに生じる摩擦をいかに合理的に処理し、双方が納得し合うのか、である。
 とすれば、『自由・平等』とセットで言われる、具体的に誰と言わずに漠然と人を愛する『友愛』などという概念は、ほとんどわれわれには使いようのない絵空事である。自分の『愛』が他人の迷惑にならない保障さえないのに。」

 (念のため付言しておくと、この文章が書かれたのは’94年から’97年にかけてである。日本の或る無責任な政治家が「友愛」を掲げたのは一昨年の秋のことであったが・・・。)

 「立場が違い、利害相反する人々にまず求められるのは、無理して『友愛』を衆に施すことではなく、お互いの立場の相違に『寛容』であることだろう。その前提が忍耐である。
 それぞれに立場があることをわきまえて、その間に道義的で公正な関係を、寛容の精神に基づいて辛抱強く打ち立てる──ということは、なにも人間同士だけの問題ではなく、人間の立場を守るため、自然との間でも問われてしかるべきであろう。」

 「かくて私は、社会倫理の考え方として、神様提供の『自由・平等・友愛』に対して『道義・公正・寛容』をもってしたい。それは神様ではなく、自他の関係のあり方を土台にして導かれる、仏教的理念なのである。」
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 長々と引用してしまったが、こういう考え方を、私は支持したい。一神教の世界の人々からは大いに反論があることだろう。だが、限りなく暴走しかねない理念を振りかざしては争いを起こしてきたのは、歴史的に見ても一神教の側にあったのは否定できない事実であろう。

 その一神教の世界で開発された最新の「飛び道具」がソーシャルメディアだ。爆発的な普及と共に、人々が手にした「自由」は際限のないものになり、拡散した「自由」同士がぶつかり合うことになる。そこに「道義・公正・寛容」が用意されていなかったら、その先に待っているのは対立ばかりの世界だ。それが、神様の望むところなのだろうか?

 最新のニュースでは、イスラム教の安息日にあたる金曜日に、バーレーンで反政府デモに対する治安当局側の発砲があったという。今この瞬間も、ソーシャルメディアを通じて膨大な情報が地球上を飛び交っていることだろう。責任ある発言も、そうでないものも一切合財をごちゃ混ぜにして。

 拡散する「自由」に押しつぶされないよう、人間の智慧が求められている。

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