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南岸低気圧 [歴史]

 2月25日。今日は関東地方に春一番が吹いた。会社の昼休みにコーヒーを買いに外に出たが、まさに上着もいらないような暖かさで、足取りも軽くなった。寒さに身構える必要がないのは、やはり楽である。

 ①立春から春分までの間で、
 ②日本海で発達した低気圧に向かって、
 ③初めて南寄りの強風が吹き(東南東から西南西の風向きで、10分間平均で風速8km/秒以上)、
 ④前日よりも気温が上がること
が春一番の条件だそうである。その点、今日はオホーツク海の低気圧から伸びた寒冷前線が本州を通過する時に吹いた南風なので、やや変形版ではあるが、ともかくも気温が一気に上がり、東京都心では午前11時半に20度を超えたそうだ。
weather chart (25Feb2011AM9).jpg

 週間天気予報によれば、この後来週の月曜日には日本列島のすぐ南を低気圧が通過することになるようだ。「南岸低気圧」と呼ばれ、北側の寒気と南側の暖気が低気圧の前線でぶつかり合うため、低気圧の中心が伊豆大島よりも南側を通り(かといって本州からあまり離れず)、地表付近の気温が2度以下に下がった時には、関東の平野部でも雪になるという。冬がそのピークを過ぎ、「西高東低」が長続きしなくなる頃によくあることだ。だが、実際に雪になるか雨に留まるのかは、定規で線を引いたようにそうスッパリとはいかず、天気予報でそれを正確に見通すことは今もなお難しいようである。

 国立国会図書館のWebサイトでは、天気図のアーカイブスを見ることができる。それを使って1936(昭和11)年2月26日午前9時の天気図を検索してみると、これも典型的な南岸低気圧のパターンである。今からちょうど75年前のこの日、東京は雪の朝を迎えていた。
weather chart (26Feb1936AM9).jpg

 この日の未明、日本陸軍の一部青年将校らが1,400余名の兵を動員し、「昭和維新断行」と「尊王討奸」を掲げて決起した、いわゆる「二・二六事件」の様子を伝える写真は、どれも外は雪景色だ。

 この時代は、陸軍軍人によるクーデター未遂事件(「三月事件」、1931年3月)、いわゆる「満州事変」の発端となった柳条湖事件(同9月)、再び陸軍軍人によるクーデター未遂事件(「十月事件」、同10月)、海軍軍人が犬養首相を暗殺した「五・一五事件」(1932年5月)、満州国承認(同9月)、国際連盟脱退(1933年3月)、ワシントン海軍軍縮条約破棄(1934年12月)、陸軍将校による永田鉄山軍務局長斬殺事件(1935年8月)・・・という出来事が示すように、議会が軍部の横暴に押しまくられていった時代、という風に理解されている。

 また、そうした軍部の横暴を許した諸悪の根源は、軍部が内閣の指揮を受けず天皇に直属した組織であるという、いわゆる「統帥権独立」にあり、大日本帝国憲法における最大の問題点である、という風に語られることが多い。あの司馬遼太郎も、「統帥権」に対してはエッセイの中で口を極めて罵っているが、そういう理解で良いのだろうか。
Coup on Feb 26 1936.jpg

 これについては、二・二六事件が鎮圧された後、いまだ首都が戒厳令下の5月に開かれた帝国議会で、広田弘毅首相の演説に対して質疑に立った斉藤隆夫衆議院議員の発言が興味深い。斉藤隆夫は議会で軍部の政治介入に対する徹底批判を続けた代議士として知られ、この4年後の帝国議会における「反軍演説」のために衆議院議員を除名された経緯はつとに有名である。

 「(明治15年の明治天皇による「軍人勅諭」を引用し)軍人たる者は世論に惑わず、政治に拘らず只々一途に己が本分たる忠節を守れと仰出だされて居る、聖旨のある所は一見明瞭、何等の疑を容るべき余地はないのであります。」
(以下、引用は全て「衆議院議事速記録」)

 「また、陸軍刑法、海軍刑法に於きましても、軍人の政治運動は絶対に之を禁じて、犯したる者に付ては三年以下の禁錮を以って臨んで居る、また衆議院議員の選挙法、貴族院多額納税議員互選規則を見ましても、現役軍人に対しては、大切なる所の選挙権も被選挙権も与えて居らないのであります。」

 「これは何故であるかと言えば、詰り陸海軍は国防の為に設けられたるものでありまして、軍人は常に陛下の統帥権に服従し、国家一朝事有るの秋(とき)に当っては、身命を賭して戦争に従わねばならぬ・・・」

 「もし軍人が政治運動に加わることを許すということになりますると云うと、政争の結果遂には武力に愬(うった)えて自己の主張を貫徹するに至るのは自然の勢でありまして、事茲(ここ)に至れば立憲政治の破滅は言うに及ばず、国家動乱、武人専制の端を開くものでありまするからして、軍人の政治運動は断じて厳禁せねばならぬのであります(拍手)」

 論旨は明快で、軍隊を政争の具にしてはならないから、統帥権は内閣の外にあり、その代わり軍人には選挙権も被選挙権もなく、政治には係われないのが法制上の仕組みだという訳である。しかも、憲法制定以前に明治大帝が「軍人は政治に拘ってはならない」と諭していたのだ。

 統帥権の問題は、1930(昭和5)年のロンドン海軍軍縮条約締結の際に、条約に反対する海軍軍令部長(加藤寛治)や軍令部次長(末次信正)らが、「軍備を制限する条約に、政府が軍令部の同意なく調印したのは統帥権干犯」であると騒ぎ出したのが発端であるが、前述のような憲政上の仕組みがあるにも係わらず、本来ならそれを押さえつけるべき議会側で、犬養毅や鳩山一郎らが与党・民政党を攻撃するためにこれに同調し、事を大きくしてしまった。まさに軍隊を政争の具にしてしまった訳で、それだけでも犬養と鳩山は万死に値すると言うべきだろう。

 この軍縮条約締結に漕ぎつけた浜口雄幸首相は、同年11月に東京駅ホームで狙撃され、以後日本の1930年代は、軍部の急進派やそれと結託した右翼によるテロが相次ぐことになる。そして、度重なるクーデター未遂事件や五・一五事件などの勃発にも係わらず、軍部はその処分を曖昧にしてきた。前述した衆議院議員・斉藤隆夫は、帝国議会での質疑を更に続けている。

 「(陸軍軍人によるクーデター未遂事件となった「三月事件」、「十月事件」について)此両事件に対し、軍部当局は如何なる処置を執られたかと云うと、之を闇から闇に葬ってしまって、少しも徹底した処置を執って居られないのであります。(拍手)」

 「若(も)し夫(そ)れ軍部以外の政治家にして、或は軍の一部と結託通謀して政治上の野心を行わんとするが如き者が若しあるならば、是は実に看過すべからざるものであります(拍手)」

 「政治圏外にある所の軍部の一角と通謀して自己の野心を遂げんとするに至っては、是は政治家の恥辱であり、堕落であり(拍手)又実に卑怯千万の振舞であるのである。」

 「軍部当局は相当に自重せられることが国民的要望であったにも拘らず、或は某々の省内には政党人入るべからず、某々は軍部の思想と相容れないからして之を排斥する。最も公平なる所の粛正選挙に拠って国民の総意は明に表白せられ(拍手)之を基礎として政治を行うのが明治大帝の降し賜いし立憲政治の大精神であるに拘らず(拍手)一部の単独意思に依って国民の総意が蹂躙せらるるが如き形勢が見ゆるのは、甚だ遺憾千万の至りに堪えないのであります(拍手)」

 軍部大臣への質疑という形を取りながら、大半は軍部への批判、そして軍部と結託する一部政治家への痛烈な批判。後に「粛軍演説」と呼ばれた斉藤隆夫のこの大演説は1時間25分に及んだという。
T Saitoh.jpg
(斉藤隆夫 1870~1949)

 軍人が政治に係わらないような仕組みをいかに作っても、人間の方がその運用をズルズルと曲げてしまえば本来の目的を達することはできない。逆に言えば、雨になるか雪になるかは来てみなければわからない南岸低気圧と違って、憲政の仕組みとその運用は人間の意志で動かすことができるものだ。だからこそ、人間がしっかりしていないといけない。

 もっとも、制度の運用の失敗を政治家だけの責任とする訳にもいかないだろう。ひとたび満州事変が始まると、途端に好戦的になったのは国民でありマスコミであったのだから。それは、昨年秋に起きた尖閣諸島での中国漁船衝突事件の時の日本国内も、そして延坪島で北朝鮮の砲撃を受けた時の韓国の世論を見てもそうだ。一たび事を構えると「世論」は沸騰し、マスコミはそれを煽る。そして、強硬論者にかぎって後で責任を取らないものだ。

 とは言え、帝国議会の議事録を眺めつつ、昨今の政治の混迷、政治家の言葉の軽さと無責任さを見るにつけ、議会での言論は戦前の方がまだましだったのではないかとさえ思えてしまうのは、私だけであろうか。

 春一番が吹いた次の日は、決まって寒さが戻るという。春本番が待ち遠しいが、まだしばらくの我慢である。

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