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I先輩のキスリング [自分史]


 日曜日の午後3時、私たちは西武新宿線のとある駅に集まった。私の10年先輩のWさんを筆頭に総勢11名。私が一番の若輩者だ。6年先輩のSさんは成田にこの日の朝着くフライトで、任地のカンボジアから駆けつけてくれた。そしてSさんの同期生だったI先輩の奥様が来られて、一同挨拶を交わし、それからお寺に向かって皆で歩き始めた。3月最後の日曜日。よく晴れたが、この時期にしては吹く風が冷たく、大きくなった桜のつぼみも足踏み状態である。

 I先輩は、一昨年の3月に癌で亡くなられた。生きておられたなら、今頃はちょうど還暦を迎えられていたことになる。その三回忌となる今月、Iさんを知るかつての高校山岳部のOB・OGの有志でお墓参りをさせていただこうという話が持ち上がり、私も末席に加えていただくことにしていたのである。

 駅前を過ぎ、住宅街を貫く一本道をのんびりと歩いて私たちがお寺に着くと、一足早く来ていた大学生のご長男が待っていてくれた。その目元にIさんの面影を濃厚に残していて、誰もが頷いている。奥様に導かれて私たちは墓地を進み、Iさんの眠る場所へと向かう。

 私が高校1年と2年の頃、I先輩は山岳部の合宿山行にOBとして参加して下さった。何度ご一緒したか正確には覚えていないが、大変お世話になったことだけは忘れようがない。

 特に機嫌が悪いわけでもないのにどこかムスッとしている、というのがIさんの第一印象だった。口数が少なく、たまにボソッと出て来る言葉は何だかぶっきらぼうだ。けれども、山を歩きながら現役高校生の私たちのことを実はしっかりと見てくれていて、ここぞという所では的確な指示が直球のように飛んできた。そういう点では厳しい人だったが、ハートの中は暖かく、しかしそれを素直に人に見せるには照れ屋に過ぎた。そんな先輩だった。

 I先輩といえば今も語り草になるのは、山へ行くのにいつも驚くほど荷物の少ないことだった。

 私たちが山岳部員の頃は、キスリング・ザックという、厚い布製の大きなザックを背負うのが基本であった。荷造りの際には、前後の幅をなるべく薄くしながら横長の直方体状に詰めて行くのが原則で、行動中に出し入れが必要な物は左右の大きなポケットに目一杯入れていた。
kissling01.jpg
(ザック・メーカー『片桐』のHPより拝借)

 だから、ザックの横幅は自分の体の幅よりずっと長くなるので、狭い所は横歩きでしか通過できず、その様子から「カニ族」などと言われたものだ。特に冬山ともなると必要な荷物は多くなり、私たちのキスリングは山のような大きさになっていた。

 だが、OBとしてやって来られるIさんのキスリングは、両方のポケットには殆ど何も入ってないので口が開いたままで、キスリングの上部を無造作に紐で縛っただけの、いたって小さな荷物だった。いつも薄着で、本当に必要最低限の物しか持たず、その少ない持ち物を本来の用途にこだわらず色々と代用しながら、寒い雪山の中でも飄々と過ごしていたのがIさんだった。

 厳冬期の高山では、ウールの手袋をした上に、肘までの長さのあるオーバー手袋というものを防寒用に着用するのが基本だ。(最近ではオーバーミトンと呼ぶらしい。) ところが、そうした冬山でテント生活をしていて、ちょっとテントの外に出るのに山靴を履きなおすのは面倒だからと、Iさんはオーバー手袋を足に履いて、外の雪の上をひょいひょいと歩いてはすました顔をしていた。
climbing gear.jpg
(現在の「オーバーミトン」)

 いつもそんな風に荷物の少ないIさんだったが、一日の行動を終えて私たちが夕方の飯炊きをしている間などは、その少ない荷物の中から文庫本を取り出して読んでいた。そんなところが、この人は本質的に山男だった。そしてIさんのそんなスタイルに、私たちは憧れた。

 癌が見つかってからI先輩に残された日々はとても少なかった。さぞかし無念だったことだろう。だが、ご命日の前々日まで日記をつけて、復帰に向けてファイトを燃やし続けていたという。終生、自分にも厳しい人だったのだ。

 Iさんの墓前にお線香を上げ、献花をして、私たちは一人ずつ手を合わせる。
 「天国は禁煙なんだろか?」
 「まぁこういう時代だから、それなりに分煙してるんじゃないですか?」
 「そんなら、一本お供えしとこか。」
愛煙家でもあったIさんに、先輩たちがそんなお供えをする。
 「パパ、久しぶりのタバコだね。よかったねー。」
残された奥様の変わらぬ明るさが、私たちにとっては救いである。

 そんな風にしてお墓参りが終わり、私たちは近くにある公園へと足を伸ばす。桜の名所として知られているが、秒読み段階とはいえ、今日は僅かに早過ぎたようだ。桃色の頭をのぞかせているつぼみもあるが、あと一日二日というところだろう。その何日かを待つこともまた、この季節の楽しみの一つなのである。

 四時半になった。先輩方が場所をセットしてくれた寿司屋の二階に上がり、奥様が持って来られたIさんの写真を立てて、皆で献杯。それから私たちは賑やかに時を過ごした。

 時節柄、先般の東日本大震災のことも話題に上る。都内で普通なら帰宅難民になるところを、話を聞いてみると皆それぞれにたいそうな距離を平気な顔して歩いて帰ったという。やはり山岳部OBなのである。

 私の1年上のMさんが、昔のアルバムに入っていたものをスキャンしたといって、懐かしい写真を持って来てくれた。1973年3月、南アルプスの仙丈ヶ岳(3033m)の山頂で撮ったもので、当時高校生の私たちと共にOBのIさんがシャイな笑顔を見せている。

 今のように南アルプス・スーパー林道を走る公共のバスなどない時代。重いキスリングを背負い、伊那側から長い距離を登って、やっと北沢峠。その翌日は小仙丈ヶ岳(2855m)の下の、森林限界に出る前のあたりで再び幕営。高校生の人数が多かったので、三日目からはアタック隊を二日に分け、高校生5人にOBが3人つくような形で仙丈ヶ岳を目指した。つまり、3人のOBは同じルートを二度歩いて私たち全員を山頂へ連れて行ってくれたのである。幸い、両日とも天候に恵まれた。だから今も残る写真の、雪の山頂の背後は青い空だ。

 紐解けば明治時代に遡る、日本の高校山岳部でも最も古い部類のクラブ。先人たちは物資の乏しい時代から山深くへと入り込んでいたようだが、その長い歴史の中で死亡事故だけは一度もなかった。そうした伝統を受け継いだOBたちがいてくれたからこそ、当時16歳の私が積雪期の仙丈ヶ岳の山頂に立ち、そして無事に帰ってくることができた。その私は大学生になって後輩たちと山へ行き、それから30年を経た今もなお、この歳なりに山に親しんでいる。これも何かの縁なのだが、振り返ってみれば実にありがたいことである。

 高校山岳部の夏合宿といえば、穂高であった。それも、ベースキャンプを張るのは涸沢ではなく、上高地の河童橋から真正面に見える岳沢(だけさわ)だった。西穂高から奥穂・前穂を経て明神岳までズラリと並ぶ岩稜と白い雪渓、ハイマツの緑と青い空は、年次を超えて私たちに刻印された共通の思い出なのだ。
Kamikochi.jpg

 その岳沢にあった山小屋・岳沢ヒュッテは2006年に雪崩を受けて全壊してしまったのだが、関係者の尽力もあって昨年「岳沢小屋」として再開された。小屋のそんな新しい様子も見がてら、今年の梅雨明けの頃、今日のメンバーを中心に皆で岳沢へ行ってテントを張ろうよ。最後はそんな話でおおいに盛り上がった。それは是非とも実現してみたいものだ。
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(再建された山小屋)

 寿司屋の二階が山小屋の談話室のようになった一時。これもまた、I先輩のおかげである。

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コメント 2

T君

 出席できませんでした
 I先輩は、仰せのとおりニヒルで、怖い先輩でした
「山は猫のように歩け」という言葉(昨年聞いたのですが)を、思い出します

 最近届いた高校の名簿、われわれも真ん中より前に収録されている時代なのだと、ちょっと寂しさも
by T君 (2011-03-29 04:17) 

RK

38年前の仙丈ヶ岳山頂の写真を眺めてみると、登山用具もウェアもずいぶん変わったものだと改めて思いました。

それでも75回の先輩方は昔のニッカボッカを引っ張り出してきて、雪の蓼科山に最近登って来られたそうです。
by RK (2011-03-29 20:37) 

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