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記録に学ぶ [読書]

 私は、小説を読むのがあまり得意でないと、自分でも思うことがある。

 漱石や鷗外など、古典と呼ばれる物に手を伸ばしてみることはある。実際に、何度も読み返してみたくなる作品に巡り合うことも少なくはないが、それでも自分が感銘を受けるのは、どちらかと言えば余計な感情表現が少なく、事実を淡々と、しかも的確に掘り起こしていくようなタイプの作品だ。

 「作り話に付き合っている暇はないよ。」という思いが、常にどこかにあるのだろう。今の世の中の仕組みから始まって、日本や世界の歴史、人類の思想史としての宗教、そして自然科学の分野・・・。自分が知りたい事実や理論はまだ幾らでもあるのに対して、30代、40代の頃に比べればだいぶ自分の時間が取れるようになったとはいえ、少なくとも平日はまだ会社に時間を捧げる生活である。その限られた時分の時間を「作り話」のために消費する気にはなれないと、どうしても思ってしまうのだ。

 だから、一部の歴史物を除いて、テレビドラマの類を観ることは、私の場合は皆無と言っていいだろう。およそ芸能人というものに興味がないことも理由の一つなのだが、「作り話」に付き合わされるのは御免だから、家族がドラマを観ている時はテレビの前から退散することになる。どんなドラマが人気だろうと、自分には関係のないことだ。

 その、私が限定的に観ることがある歴史物のドラマだって、男女の仲がどうのこうのというような筋書きになると、どうでもいいなと、つい思ってしまう。自分の知りたいことの中心はそこにはないからだ。「人情の機微を解さぬ無粋な輩」と言われればそれまでなのだろうが。

 そういう私にとって、「記録文学」の代名詞ともいえる吉村昭(1927~2006)の作品の数々は、その内容にぐいぐいと引き込まれていくものの一つである。昭和45年に出版された『海の壁──三陸沿岸大津波』が、その後改題されて今は文春文庫から『三陸海岸大津波』として出ているが、今般の東日本大震災を契機にこれを読み、「作り話」とは正反対の、事実に焦点を当てて記録することに徹底した姿勢に大きな感銘を覚えることになった。
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 著者は、戦後毎年のように三陸海岸を訪れた。休暇が目的だったのだが、訪れた三陸の津々浦々で地元の人々と話しているうちに、過去この地域を襲った津波の話を幾度となく聞き、そのことが頭から離れなくなったのが、この本を記すことになるきっかけであったという。

 この本の中で再現されているのは、明治29(1896)年の津波、昭和8(1933)年の津波、そして昭和35(1960)年のチリ地震津波である。三陸の各地に残された記録を綿密に調べ、地元の人々への聞き取り調査を行い、それらによって掘り起こされた事実を明らかにする、その手法は著者ならではのものだが、それは大変な労力を要する作業であったことだろう。前述したように最初の出版は昭和45年だが、その時点でさえ明治29年の大津波を経験した地元民は既に残り少なく、直接証言を得られたのは僅かに2名だけだったという。

 津波を引き起こす大地震の前兆として、各地でカツオやイワシが俄かに大漁になったことや、どんな旱魃の時も水を湛えていた井戸が涸れた、或いは井戸水が濁った、井戸の中でゴボゴボと音がした、というような現象が起きたそうである。そして地震が発生すると、海の彼方に稲妻のような閃光が見えた、砲撃のような音が海から響き渡った、というような証言が非常に多いという。更には、津波の前には潮が異様に大きく引いて、海の底が見えるまでになるそうだ。そして、その後に大津波が押し寄せてくる。

 「海面が白い光を放つと、見る間に津波が襲ってきた。」
 「泥をまじえ、波の先が切り立った屏風のように、速度はすこぶる大で汽車よりはやい。」
 「静かにきたが、防波堤の所で急に高くせり上がった。」
 「大きな容器の中の水が一斉にあふれ出るようにやってきた。」
 (『昭和八年の津波──来襲』より)
各地の気象台から寄せられた報告は簡潔にして明瞭である。

 そして、明治29年の津波の場合で言うと、各地で得られたデータから学者と宮城県土木課が算出したところでは、津波の高さは各地で10メートルを超え、その最大値は岩手県気仙郡吉浜村吉浜(当時の地名)の24.4メートルだそうである。だが、個々の地形によっては津波がもっと高くまで陸地を駆け上がることがある。岩手県のある漁村で得られた証言で、明治29年の津波が海岸線から高さ50メートルの所にまで達していたことを知り、著者は衝撃を受けている。

 明治29年の津波の40年前、安政3(1856)年にも北海道南東沖の地震による津波が三陸海岸を襲い、死者多数を出した。そして今回の東日本大震災である。安政3年の津波から155年の間に4回の大津波が三陸に押し寄せたことになる。(昭和35年のチリ地震津波は日本近海での地震に起因したものではないが、津波が来て被害を受けたことにかわりはない。)

 科学が発達していなかった時代は、「津波は夜には来ない」などという迷信のために避難が遅れたような事情も本書では指摘されているし、40年に一度は津波が来る地域でなぜ海岸線沿いの低地に住むのかと問われて、「高台に住めば安全なことはわかっていても、40年に一度のことで日々の暮らしを不便にはできない。」という地元の人々の声も、紛れもない本音なのだろう。だがそれにしても、過去の災害を経験した人々が残した記録や証言がもう少し活かされていればと思うようなことが、今回の震災でも少なくなかったのではないか。地元の人々にとっては住み慣れた、自然が豊かで普段は素晴らしい土地も、40年に一度の出来事によって、一瞬のうちに打ち砕かれてしまうのだ。

 安政3年の津波以来、最も大きな被害を受けてきたのは現在の岩手県であった。今日(5月14日)の新聞朝刊によると、これまで海岸保全基本計画に基づいて防波堤を築いてきた、その前提となる高波の想定が東北各県の間で異なり、岩手県で10メートル超、宮城県で5メートル級、そして福島県では6メートル級であったそうだ。岩手県と宮城県は明治29年の津波や昭和35年のチリ地震津波の際の記録をベースとしていた一方、過去に津波の大きな被害のなかった福島県は台風や低気圧による高波の記録に基づいた計画であったという。

 今回の東日本大震災における津波は、石巻市や名取市など、宮城県の被害が最も大きかったばかりでなく、岩手・青森といった過去にも津波を経験した地域の他に、福島県、茨城県の沿岸部にも多大な被害を与え、更に千葉県の一部にも及んだ。過去に「津波の大きな被害のなかった」福島県で、今回の津波によって原発の外部電源が奪われてしまったのは、悔やんでも悔やみきれないことだ。

 日本列島に暮らす以上、自然災害は必ずやってくる。それを完璧に防ぐことは不可能だとしても、過去の経験に学び、そこから更にプラスアルファを大胆に想定して対策を立てることにより、「想定外の事態」を免れることは可能ではあるだろう。東日本大震災は未曾有の災害ではあったが、これを契機に、今までやろうとしても出来なかった様々な改革にゼロクリアで取り組み、確固たる対策を講じる絶好の機会でもあるのだ。

 そのためにも、記録を集め、整理し、情緒を排して記録に学ぶことの大切さを私たちは今一度認識したい。本書はその格好の材料となるはずである。

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