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君主の実像 [読書]

 東日本大震災の発生から、ちょうど10週間が経とうとしている。

 未曾有の規模の自然災害に原発事故が重なるというこの国難の中で、被災地域のために何ができるか、国のために何か自分にできることはないか、多くの国民が自問自答と模索を繰り返したこの10週間。献身的な行動もあれば、ただ危機感を煽るだけ、誰かを批判するだけの無責任な言論も巷には溢れた。だが、そんな中で理屈抜きに多くの人々の胸を打ったのは、ご高齢をおして各地の避難所を訪ねられ、被災者を励まされた天皇、皇后両陛下のお姿ではなかっただろうか。

 現地での警備その他に余計な負担をかけたくないからと、日帰り強行軍の日程を組まれ、避難所では床や畳に膝をついて一人一人にゆっくりと声を掛けられる両陛下。そして、「ありがたいことです」と涙ぐむ被災地の人々。日本国憲法第1条に謳われた「天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」という言葉の意味は、私たちにとっては説明不要の、自分の体内を流れる血液と同じようなものだとさえ思えてしまう。

 世界の中で他に例を見ない、上古の時代から続く天皇家。しかし、民の前に姿を現し、親しく語りかける天皇の姿というのは、「現代史」の中にしか出て来ないものだ。幕末物のドラマに登場する孝明天皇は、御簾の向こうで直接は姿の見えない存在として描かれているし、明治帝は臣民の前では決して口を開かなかったとされる。従って、国民にその姿を見せて親近感を持たれるようになったのは、皇太子時代の大正天皇が最初といえるが、不幸にして健康に恵まれず、天皇在位期間の後半は公務もままならなかった。

 とすれば、現在のような、国民にとって親しみのある皇室のイメージが確立されたのは、25歳の若さで即位し、戦前・戦後の激動期に在位63年に及んだ昭和天皇の時代ということになる。私は昭和30年代の初めの生まれだから、今までの人生のまだ半分以上が昭和の時代なのだが、そういう「同時代史」であるにも係わらず、その昭和天皇の人物像を実はあまり知らずにいた。

 『昭和天皇 「理性の君主」の孤独』 (古川隆久 著、中公新書)は、その人間・昭和天皇を知る上で大変参考になる本である。
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 昭和天皇に関する文献は、側近たちが残した日記の類まで含めれば膨大な数にのぼり、特定のイデオロギーに基いて書かれたものも数多い。そんな中、本書は「『昭和天皇の実像を知りたい』という欲求に可能なかぎりこたえること」を目的に、様々な史料を突合せて実証的に人間・昭和天皇を描くことを試みている。そしてそのアプローチの中心は、若い頃の思想形成過程と、旧憲法下における政治との関わりという側面である。

 昭和天皇というと、その崩御の後に出版された『昭和天皇独白録』があまりにも注目を集めたので、つい、そこに書かれている内容に引きずられてしまいがちだ。それは終戦直後の時期に語られた回想が記録されたものだが、その中でも有名なエピソードが、1928(昭和3)年6月に起きた張作霖爆殺事件、いわゆる「満州某重大事件」の事後調査と関係者の処罰について、時の田中義一首相を昭和天皇が直々に叱責したとされる一件である。

 事件は当初から関東軍の陰謀が疑われ、田中も徹底調査と厳正なる処分を一度は天皇に約束するが、陸軍の抵抗を受けてズルズルと後退し、関東軍の関与はなかったという報告で済ませようとしたところ、天皇は、「それでは前と話が違ふではないか、辞表を出してはどうかと強い語気で云った。こんな云ひ方をしたのは、私の若気の至りであると今は考へてゐるが、とにかくそういふ云ひ方をした。」

 こんな叱責を受けてしまった田中は進退窮まり、総辞職を決意。しかもそれから2ヶ月あまりで失意の内に急死してしまった。そのことに衝撃を受けた昭和天皇は、「この事件あって以来、私は内閣の上奏する所のものはたとえ自分が反対の意見を持っていても裁可を与へる事に決心し」たと『独白録』に書いてあるので、以後は物言わぬ天皇になったと、私もこれまではそう理解していた。

 しかし本書を読んでみると、決してそんなことではなかったようだ。昭和天皇は、ロンドン海軍軍縮条約の締結を目指す首相・浜口雄幸を自ら激励し、満州事変の勃発にあたっては、関東軍が政府の不拡大方針に従うよう指示を出し、二・二六クーデターの鎮圧後は陸軍を叱責する内容の勅語を出し(但し、陸軍全体への伝達は陸相によって握りつぶされた)、ソ満国境の張鼓峰でソ連軍との緊張が高まった際には、武力行使の裁可を与えなかったため陸軍の反感を買うなど、明治憲法の枠組みの中で、むしろかなり能動的に政治と係わろうとしていた様子が明らかにされている。

 「全体として、昭和天皇は、儒教的な徳知主義と、生物学の進化論や、吉野作造や美濃部達吉らの主張に代表される大正デモクラシーの思潮といった西欧的な普遍主義的傾向の諸思想を基盤として、第一次世界大戦後の西欧の諸国、すなわち、政党政治と協調外交を国是とする民主的な立憲君主国を理想としつつ、崩御にいたるまで天皇としての職務を行ったことが浮き彫りになった。」

 重要な国策事項の決定にあたっては、度々御前会議を開かせて自ら質問をしようとし、「もし御前会議で決まったことがその通りに行かなかった場合には、陛下の御徳を汚す」からと、元老や内大臣が事前に止めに入ったことも少なくなかったようだ。

 だが、天皇のそうしたスタンスは軍部の不評を買い、「(昭和天皇は)恐れながらパシフィスト(平和主義者)にあらせられ、それは西園寺、内大臣が其方の論者なるが為めなり」 (白鳥俊夫外務省情報部長)として宮中側近が攻撃を受けるようになる。そして昭和の日本が戦争への道を進んで行く中で、天皇がとった行動の中には、中途半端に終わったもの、完全に失敗したものも少なからずあったことを、著者は指摘している。

 「昭和天皇は、自己の理想実現のため、旧憲法下においては天皇としての権限を行使したり、あるいは行使しようとした。いわば、『君臨すれども統治せず』を実現するために憲法上の権限を行使したのである。 (中略) しかし、旧憲法下の努力は、終戦の『聖断』を除き、結果的には事態の悪化を食い止めることはできなかった。」

 そして、
 「新憲法下では天皇は国民統合の象徴となり、少なくとも時の政治状況とは一切無縁であるべき存在となった。昭和天皇は、天皇が政争に巻き込まれることを避けるため、戦争責任のような政治的理由での退位を否定し、批判され続けてもあえて亡くなるまで在位し続けることを選んだのである。」

 昭和天皇は皇太子時代の1921(大正10)年に、20歳の若さで半年間の西欧諸国への外遊を経験している。「自分の花は欧州訪問のときだった」と懐古するほどの思い出であったそうだ。

 考えてみれば、20世紀の初頭というのは、世界の大国の中で王制が次々と姿を消していった時代である。辛亥革命で清朝が倒れ、ロシア革命でロマノフ王朝が滅び、第一次世界大戦の敗戦を受けてドイツとオーストリアで帝政が廃され、更にはケマル・パシャの革命でオスマントルコが潰えた。当時の主要国で君主制が残ったのは英国と日本ぐらいのものだ。その天皇を妙に神格化してしまった大日本帝国は次の対戦で潰えたが、それからも日本は、国の象徴、国民統合の象徴として、天皇陛下を戴く国であり続けている。そして、激動の時代にそれを可能にしたものの一つが、人間・昭和天皇その人であったことを、今回は学ばせてもらったように思う。
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 政策に責任を持つ政治家とは役目が全く異なり、天皇、皇后両陛下は日本人を象徴するお姿として、被災地の人々に声を掛けられ、同情を寄せられ、一刻も早い復興を祈られる。そして、被災者はそのお心をありがたく頂戴し、明日への力とする。大きな国難の中にあるからこそ、こうした日本のかたちを、私たちは大切にしていきたい。

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