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朝顔とほおずき [季節]

 梅雨明け以来続いていた猛暑も、今週は一服である。

 17日の日曜日に山を歩いた頃までは連日の強烈な夏空だったが、翌18日から台風6号の遠い影響が出始め、連休明けの19日(火)は雨。続く水曜日から金曜日までの三日間は、北の高気圧から涼しい北東の風が吹き降りて、東京の最高気温も24度ほど。早朝などはどこかの高原へ避暑にでも出かけたような気分になるほどの涼しさだった。

 それにしても、奇妙なコースを辿る台風があったものだ。自転車並みのゆっくりとした速度で進む間に九州や四国に大雨を降らせ、紀伊半島に近づいた後はずいぶんと南まで下がり、日本列島からだいぶ遠ざかってから、今度は北上を続けている。この時点でも未だ温帯低気圧には減衰しておらず、なかなかしぶとい台風だが、おかげで北の高気圧から風が吹き、東京に住む私たちはエアコンのいらない三日間を過ごすことができた。電力不足の日本には、何よりのプレゼントである。
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 その北東の風も弱まり、徐々に暑さが戻り始めたこの週末、我家から歩いて行ける小石川・伝通院の境内では、恒例の朝顔市が行われた。今年は妙に早く梅雨が明けてしまったので、朝顔市などと言われてもちょっと旬を逃したような感があるが、7月も20日を過ぎて学校はちょうど一学期が終わった訳だから、夏休み最初の週末が朝顔市というのは、本来タイミングとしては悪くないのかもしれない。

 我家の子供たちが小学生の頃、いわゆる「アサガオの観察日記」が夏休みの課題だったのは、もう十数年も前のことだ。そういうニーズはなくなってしまったが、いよいよこれから盛夏を迎える時に涼しげな青や紫の花を見せてくれる朝顔を眺めるのは、やはりいいものだ。そんな朝顔の鉢が所狭しと並べられた伝通院の境内では、雲間から陽が射すたびに夏が輝いていた。
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 伝通院の門前の坂道をぶらぶらと下りていき、自動車通りを右に曲がると、やがて源覚寺という寺に行き着く。そんな寺の名前よりも、ここは「こんにゃくえんま」という呼び方の方がずっと有名だ。

 開山は江戸時代の初期、寛永年間だそうだが、「こんにゃくえんま」の名の由来ともなった、この寺に伝わる閻魔大王の坐像は、鎌倉時代から伝わるものだという。浄土宗の寺として江戸期に創建されるよりずっと以前から、庶民の間では閻魔さまへの信仰があったということだろう。四天王や明王、そしてこの閻魔大王など、如来や菩薩以外の脇役のようなキャラクターでも信仰の対象になってきたところが、いかにも日本の仏教である。

 江戸時代の中頃に、眼病を患った老婆がこの閻魔さまの所へ日参したところ、ある晩に閻魔さまが老婆の夢の中に現れ、「私の片方の眼をあなたにあげよう。」と告げた。それから老婆の眼病はすっかり治ったが、閻魔大王像の片目は黄色く濁っていた。老婆は閻魔さまの功徳に深く感謝し、それからは自らの好物であったこんにゃくを断って、閻魔さまにそなえ続けた・・・。そんな言い伝えが残る閻魔大王像は、お堂の奥で今日も睨みをきかせている。
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 その閻魔堂の右奥には、塩地蔵と呼ばれるお地蔵様の像が立っている。塩はお清めの塩だが、自分の体で病などを治したい部分に相当する箇所について、お地蔵さまの像に塩を盛るとご利益があるという。老婆の眼病を治してくれた閻魔さまと共々、この寺は庶民が病気の平癒を願う場所だったのだろう。
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 五代将軍・綱吉の生母の菩提寺として建てられた徳川家ゆかりの伝通院が、丘の上に広大な敷地を持っているのとは対照的に、坂の下の庶民の寺・源覚寺の境内は細長くて狭い。人々がひしめき合うその一角で、今日はこれまた江戸の夏の風物詩、ほおずき市が開かれている。

 東京や神奈川では、今でもお盆は7月だ。その時期に、鮮やかなオレンジ色の「がく」が袋のようになって実を包むほおずきは、お盆に帰ってくる故人の霊をお迎えするための提灯に似せて、「鬼灯」とも書く。そう言えば、先週の金曜日の7月15日が暦の上では「うら盆」で、その直後の土日が東京では実質的なお盆ということになる。17年前に病で他界した義父の魂も、きっとその間は私たちの近くにいてくれたのだろう。
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 そのお盆が明け、なでしこジャパンの世界制覇に日本中が沸いていた月曜日の朝、義兄からの報せが我家に届いた。義母がこの日の朝早く、入院していた病院で息を引き取っていたのが発見されたという。享年78歳。家内は取るものも取りあえず病院へと向かった。

 認知症が進んで今の専門病院に義母が入ってから、もう8年ほどになるだろうか。私はその前に海外赴任をしていたから、以来もう15年も会っていない。お見舞いに行っても、私はもちろんのこと、実の娘である家内でさえ、自分が誰なのか相手にはわかってもらえないのだ。それでも、家内は週に一度は埼玉県のその病院を訪れ、義母の相手をして半日を過ごしてきた。義兄がその病院の通いの医師を勤めていたこともあり、病院に入れたといっても、兄弟二人で母の様子を代わる代わる見てきた訳で、たとえ本人にはそれが認知できなくても、幸せなことではなかっただろうか。

 前週の週中に訪れた時も、義母には特に変わった様子はなかったという。ただ、暑さのせいか食べなくなったと婦長さんが話していたそうだ。そのことが直接影響したのかどうかは知る由もないが、月曜日の朝、食事の前に起こしに行ったら、眠るように息を引き取っていたという。特段苦しんだ様子はなかったというのがせめてもの救いだ。

 認知症が進んでしまったことで、自分の中では母はもう既にいないも同然だと、家内はずっと以前からそう受け止めてきた。実際に息を引き取るのがここまで早いとは思っていなかったようだが、心構えが出来ているので、報せを受けてからも家内は実に落ち着いている。義母のことでは何も力になれなかった私には忸怩たるものがあると共に、悲しみの中にも皆で明るく母を送り出そうという家内の姿には、私から見ても頭が下がる。

 そんなことがあって、今週も終わった。関係者の都合から、義母の葬儀はこの週明けの月・火で執り行うことになった。結婚してから海外に赴任するまでの10年間しか、私は義母に接することが出来なかったが、家内と心を一つにして、明日はお別れをしたいと思う。

 「こんにゃくえんま」のほおずき市を眺めながら、もしかしたら義母は、お盆で帰ってきた義父の魂に招かれたのかもしれないと、ふと思った。

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