東京のアーセナル [歴史]
首都圏を南北に走るJR埼京線が開業したのは、1985(昭和60)年のことである。
今や首都圏の典型的な通勤路線で、特に大宮・赤羽間は東北新幹線と並行して立派な高架橋を走るから、開業してからもう四半世紀が過ぎたという実感があまり湧かないものだ。そして、池袋・大崎間は山手線に並行する貨物線を利用していて、途中は新宿・渋谷・恵比須にしか停まらないから、概してスピードが速い。
そんな中にあって、赤羽・池袋間は駅の造りといい沿線風景といい、どことなく昔の鉄道の匂いを残した区間である。線路は地面の高さを走り、踏切があり、他の地域に比べると古い建物が多い印象を受ける。
私が子供の頃は、池袋・板橋・十条・赤羽の四駅の間を行ったり来たりする電車しかなかった。総武線と同じ黄色い車体の国電で、山手線の支線扱いだったから、その頃は「山手赤羽線」と呼ばれていたような記憶がある。後にその名称が「赤羽線」になったのは1972年のことだそうである。
この区間の歴史は古い。明治時代に日本初の私鉄として設立された日本鉄道が現在の東北本線や高崎線を建設していく過程で、赤羽と品川を結ぶ路線が1885(明治18)年3月に開かれた。その時点で沿線に設けられた駅は、北から順に板橋、目白、新宿、渋谷、目黒の五駅だけである。
そうした古い歴史を持つ赤羽駅と板橋駅の中間に、1905(明治38)年6月に貨物駅が設置された。それが十条駅である。翌年2月には一旦廃止され、その4年後に旅客駅として復活したそうだ。つまり、十条の駅は旅客駅としても101年の歴史を持つことになる。
十条駅は、その両端に踏切が隣接していて、ホームは10輌編成の電車が停まるギリギリの長さだ。西口こそ小さな駅前ロータリーがあるが、駅舎はほとんどホームの幅ぐらいしかなく、いわゆるコンコース的なものがない。東口にいたってはホームのすぐ外側の細い路地を隔てて民家が密集しているため、板橋方に簡易な出口が一つあるだけだ。東京23区内のJRの駅で、これほど庶民的な体臭を持つ駅も珍しいだろう。
西口を出ると、駅前ロータリーの向こうに「十条銀座」というアーケードの商店街がある。XX銀座と名の付く商店街の中では都内有数の規模なのだそうだが、何ともレトロな雰囲気である。そのアーケードに入ってすぐ右に細い路地があり、そこを進むと駅の北側(赤羽方)に隣接する小さな踏切がある。まるでどこかの私鉄沿線のような風景だが、通行人は多く重要な生活道路であるらしい。
その狭い路地を進んでいくと、昼前から何やら行列が出来ている。それも、並んでいるのはおばあちゃんたちばかりだ。不思議に思って様子を見に行くと、それは「篠原演芸場」という所で開演を待つ人たちだった。看板を見たところ、今時珍しい古風な演芸であるようだったが、帰ってから調べてみると、この篠原演芸場というのは、今や都内では浅草と並んで二つだけになった大衆演劇専門の小劇場なのだそうだ。このあたりがまた、十条の街が持つ庶民性の一つでもあるのだろう。
そこから路地裏を南に向かうと、やがて広い道路に出る。その向こう側には広々とした景観。そこは陸上自衛隊の十条駐屯地である。元をたどれば、明治時代に設置された陸軍の東京第一造兵廠があった場所だ。国内に近代工業がまだ発展していなかった時代、明治の軍隊は様々な兵器を自前で製造せざるを得なかった。そのための工場のことである。
「大正八年(1919)に本所から被服本廠が移転した赤羽や十条周辺には、明治初期から赤羽火薬庫が設けられていたが、明治20年代以降、第一師団工兵第一大隊、近衛師団工兵大隊、王子火薬製造所、陸軍兵器支廠造兵廠、陸軍火工廠稲付射場、十条兵器製造所など、都心から陸軍施設が次々と移転(あるいは新設)してきた。組織名は幾度も変わったが、そのほとんどは終戦まで残り、地域全体が陸軍と密接に結びつくこととなった。」
(『地図と愉しむ東京歴史散歩』 竹内正治 著、中公新書)
十条の自衛隊駐屯地が東京第一造兵廠だったのに対して、線路の西側、現在は板橋区の帝京大学や東京家政大学のキャンパスになっている場所は東京第二造兵廠で、この両者と王子の陸軍倉庫とを結ぶ軽便鉄道も敷設されていたという。十条駅自体も最初は貨物駅として誕生したと前述したが、それも造兵廠が荷物を取り扱う駅だったのである。
「これらの施設全体の面積は(中略)王子・滝野川両区(現北区)の約一割を占めていた。東京ディズニーランドの約四倍の面積に相当する。これだけの広大な軍需工場地帯でありながら、空襲の被害は軽微だった。明らかにアメリカ軍は、占領後の施設の活用を意図していたことがうかがえる。」
(引用前掲書)
なるほど、十条一体の路地が狭く、町並みが昔のままのようであるのは、こうした事情があったからなのだ。
ロンドン北東部の郊外に、アーセナルという名前の地下鉄の駅がある。この地区のarsenal(兵器工場)の労働者がサッカーのクラブ・チームを結成し、やがてそれがプレミア・リーグの強豪として有名になったために、駅の名前も後からアーセナルに変更されたそうだ。とすれば、陸軍の施設が集まっていた赤羽や十条の一帯は、さしずめ「東京のアーセナル」ということになろうか。
十条駐屯地の正門から敷地沿いに歩いて行くと、北東の角に一箇所だけ煉瓦造りの壁が保存されている。昔の変圧所だった建物のファサード(切妻破風)である。
更に敷地の東面に沿って歩くと、煉瓦造りの二棟の建物が目を引く。東京第一造兵廠の第275棟と呼ばれていたもので、長らく放置されていたが、現在は北区中央図書館の一部として活用されている。
そして、敷地の南側には広い土地に豊かな緑が残されていて、テニスコートも用意された北区中央公園になっている。その緑に埋もれるようにしてひっそりと建つのが、東京第一造兵廠の本館だった建物である。映画やテレビのロケにもよく使われているようだが、時代を感じさせる堂々とした姿が印象的だ。現在はこの公園の文化センターとして使われている。(元々は茶色の建物で、白く塗ったのは戦後の米軍であるそうだが。)
東京23区の中によくぞこのような施設が残されていると思うほど、十条の駐屯地は広い。陸・海・空の各自衛隊の「調達本部」というプレートが正門に並んでいるから、造兵廠の時代からの機能を受け継いでいるのかもしれない。
十条の東京第一造兵廠では、小銃、機関銃、通信機器に加えて、信管、火薬、弾薬などが製造されていたそうだ。様々な危険物を扱っていたから、そこでは不慮の事故も少なからずあったことだろう。敷地の外周の一画には、イチョウの落葉に埋もれるようにして、当時の工廠長名による「殉職慰霊碑」があった。
こうした遺構は時の経過に従って失われつつある。だが、近代化に向けて日本が必死に走り続けていた時代の足跡を目の前にすると、背筋を伸ばしたくなるような思いにとらわれてしまう。
平成の時代の日本国民は、身の丈以上の暮らしを享受してきたが故に、名目GDPの二倍に達しようかという政府債務残高を抱えながら、政治はポピュリズムに怯えて身動きが取れない。そんな私たちは、貧しさを抱えながら明治の祖先たちがどんな思いでこの国の近代を築いてきたのか、その歴史に学ぶ姿勢を忘れてはならないだろう。
十条駅に戻ると、101年の時を刻むように、踏切が鳴っていた。
2011-12-17 23:51
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恵比須でなく恵比寿です
と、どうでもいいことに突っ込む!
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by T君 (2012-01-06 01:37)