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涼しい「大暑」 [歴史]

 7月22日(日)、梅雨も明けて暦の上では「大暑」なのだが、先週の金曜日から日本列島は北の高気圧に支配され、東京では時に小雨の混じる曇空の下、この時期にしてはかなり涼しい天候が続いている。

 夏になった気分があまりしないが、モノは考えようで、外がカンカン照りだったら街を歩くのもしんどいが、これぐらいの気温なら汗をかかずに済むし、日焼けの心配もない。そんな訳で、昼ごろから久しぶりに家内と散歩に出た。近くの伝通院ではこの季節に恒例の朝顔市が開かれているはずである。

 春日通りを東方向に歩く。大塚三丁目から東側は、この大通りが大袈裟に言えば台地の尾根のような部分を走っていて、道の両側は下り坂だ。そしてその春日通り自体が富坂という坂道で後楽園方向へと下り始める直前、言わば春日通りがどの方向から見ても一番高い位置にある、そんな場所に開かれたのが浄土宗の無量山寿経寺だ。開山は1415年というから、関東では鎌倉公方の足利持氏と関東管領・上杉禅秀が争っていたような時代である。

 当初は小さな寺だったのが、家康が江戸に出て来てから俄かに発展することになる。1602年に家康の生母・於大(おだい)の方が死去すると、家康はこの寿経寺を菩提寺に定めた。その於大の方の戒名が伝通院殿であったことから、この寺は伝通院と呼ばれることになる。江戸はこれから街造りが始まるところで、当時はまだ上野の寛永寺も出来ていない。江戸城の近くで浄土宗のそれなりの寺というと、この寿経寺ぐらいだったのだろうか。

 伝通院の朝顔市自体は、その涼しげな花をゆっくり眺めてもすぐに終わってしまう。家内と私は、それから境内の前を緩やかに左カーブしながら北東方向へ下りていく坂道を歩くことにした。淑徳学園という伝通院系の学校を過ぎると、道路の真ん中に大きな椋(むく)の木があり、左側のちょっとした崖の上に古い寺が時を忘れたように佇んでいる。
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 慈眼院という寺の名よりも、ここは澤蔵司(たくぞうす)稲荷という稲荷神社の名前の方がずっと有名だ。このお稲荷さんの小さな境内でも今日は朝顔市が開かれ、ちょっとした縁日のような出し物もあって、いかにも夏祭りという感じである。

 その縁日の奥に古めかしいお堂があり、その右側には観音様やら狐の像やらがあり、霊窟(おあな)と書かれた石碑の先に、昼なお暗い森の中へと続いていく細い道がある。そこを進んで行くと、薄暗い窪地があって赤い鳥居が続き、奥には洞穴があって稲荷神が祀られていた。都会の真ん中にありながら、妙におどろおどろしい場所である。
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 1618年というと、家康が他界した2年後のことだ。伝通院の学寮に澤蔵司という修行僧が現れたそうである。頭脳明晰で浄土宗の奥義を僅か3年で習得してしまったその男は、1620年5月の或る夜、学寮長の夢枕に立ち、
 「自分は太田道灌公が千代田城に勧請した稲荷大明神である。浄土宗を学びたいと長年思っていたが、この寺に学んでその希望を叶えることができた。これより元の稲荷神に戻るが、今後は末永くこの寺を守護し、3年間の恩に報いよう。そのために速やかに一社を建立して稲荷大明神を祀るべし。」
と告げたという。

 そこで、伝通院の住職の廓山(かくざん)上人が境内に澤蔵司稲荷を祀り、慈眼院を別当寺としてその管理にあたらせた。という訳で、この小さなお稲荷さんには400年に近いご由緒があるのである。もっとも、太田道灌による江戸築城が完成したのは1457年のこととされるから、その時に日枝神社だの築土神社だのと一緒に勧請されてきた稲荷神社は、澤蔵司稲荷よりも更に150年ほど長い歴史を持っていることになる。

 ついでながら、稲荷大明神の化身であった澤蔵司は伝通院の門前にある蕎麦屋によく足を運んだそうである。その澤蔵司が来た時は代金の銭の中に必ず木の葉が混じっていたので、蕎麦屋の主人は「さては澤蔵司は稲荷大明神であったか」と気がついたという。(それとは別に、寺の中で熟睡していて狐の本性をあらわしてしまった、という説もある。) 由来、この蕎麦屋では毎朝最初に釜から上げた蕎麦を澤蔵司稲荷にお供えしたそうで、それが「いなりそば」の始まりなのだそうだ。

 因みに、この蕎麦屋は今でも伝通院前の交差点近くにあり、澤蔵司稲荷へのお供えを続けているという。ビルの一階の、あまり目立たない門構えだが、1620年当時は数少ない外食の出来る場所だったのだろう。江戸の市街化がまだ始まったばかりの頃だから。
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 そもそも「お稲荷さん」は京都一帯に勢力を張っていた渡来系の豪族・秦氏の氏神で、無数の赤い鳥居が山の上まで延々と続く伏見稲荷大社が全国の稲荷神社の総本社である。元々は稲の神様だったのが、時代と共に商売繁盛など福徳全般の神様になって、全国に神社が増えたようだ。東日本の方が数が多いと聞くと、ちょっと不思議な気がする。

 一方、真言密教が全国に普及する過程で、インドの女神を原形とする荼枳尼天(だきにてん)と稲荷神が習合したという。人の心臓を食らう夜叉である荼枳尼天のイメージが、稲荷神の使いである狐の姿と重なり合ったのか。私が子供の頃には、「お稲荷さんの祠を見かけたら、ちゃんとお参りしないと祟りがある。」などと教えられたものだったが、そうした「祟り神」としてのお稲荷さんはこのあたりから来ているのだろう。映画化もされた浅田次郎の小説『憑神(つきがみ)』でも、主人公が開運を祈ったつもりが、神社を間違えたために疫病神やら貧乏神やらに取り憑かれてしまったのは、やはり稲荷神社であった。

 澤蔵司稲荷のお堂の横には、参拝者が文字を記入した絵馬が多数掲げられていた。お稲荷さんは受験の神様ではないからか、その手の文言は少なくて、その代わりに家族の病気の平癒だとか、「手術がうまく行きますように」だとか、それぞれに切実な願いが込められたものが多い。中にはアラビア語で書かれたものまであって、お稲荷さんもグローバルに目配りをしなければならない時代である。
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 お堂の前で、家内と私は手を合わせる。太田道灌公の時代から江戸におわす稲荷神は、今の東京や日本全体をどのように見ておられるのだろうか。そのことに比べれば、家内や私のお願いごとは余りにも小さなことだが、ともかくもそういうお願いをするからには、世の中のためにも、家族のためにも、実直に生きて行きたいものである。

 来週はまた暑さが戻るようだし、仕事の予定も忙しくなるが、今日は散歩でリフレッシュして元気を取り戻そう。

 それからあと一時間ほど、家内と二人で街を歩いた。

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