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近代の残滓 [読書]

 尖閣諸島の領有権問題を巡り、先週から中国各地で反日デモが急速に拡大中と報じられている。一部地域では日系企業の工場や店舗に対して明らかな破壊行為があり、商品の略奪や放火なども行われたという。そして、日本の連休明けの9月18日が、81年前に柳条湖事件の起きた日でもあることから、反日の示威行為が更に激しくなることが懸念されている。

 人間が誰かに対してある行動を起こす時、その原因は全て相手側にあるのではなく、自分の中にも何らかの原因があるものだ。まして、それが或る一人の人間ではなくて人々の集団が起こす行為の場合はなおさらである。

 「反日」を叫んで街頭に出る人々の内面には、驚異的な経済成長を続けて中国の国力が高まったことへの自信もあることだろう。他方、所得格差の拡大や役人の汚職、職に就けない若年層の増加など、国内に抱える深刻な問題に対して鬱積する不満もまた、理由の一つであるという。

 中国は21世紀の今に至るまで、国全体を統治する政治システムとしての議会制民主主義を経験したこともなければ、(「愛国無罪」などという言葉が今でも罷り通るように)「法による支配」という概念が国全体に確立された歴史も持たない国だ。自らの持つ不満を政治に反映させられる手段がないから、何かを理由にして人々は街頭に繰り出し、それがエスカレートすれば破壊や略奪に及ぶ。そして、公安当局が民衆の「ガス抜き」のためにそれを黙認するのか、或いは自らに火の粉がかかる前にそれを規制するのかは、まさに恣意的な判断でしかない。為政者の都合によって法律は幾らでも変わり、その解釈もいかようにでもなる社会なのだ。

 遥かな古代の話ならともかく、近代以降もずっとこういう歴史を過ごしてしまった国なのだから、仮に将来のどこかで中国共産党による一党支配が何か別の政治システムに取って代わることがあったとしても、中国は依然として議会制民主主義や法の支配とは無縁の世界であり続けるのではないだろうか。「改革開放」以来のハイペースな経済成長が続いていた間はそれでもよかったのかもしれないが、これからはアジア諸国でも少子高齢化が急速に進み、経済成長の“ニュー・ノーマル”を模索する時代。中国の国内問題が更に深刻化し、日本は益々その不満の捌け口にされる。そう思って我々は対応していくべきだろう。
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 「反日」の理由が戦前の「日本帝国主義」にあり、それによって大きな被害を受けたことに今も深い恨みを持つ、という点では韓国も同様なのだが、近代以降の世界史の中で日韓の関係を眺めた場合、それは日本による一方的な侵略というのが真実なのだろうか。

 今から102年前、1910年の8月29日。この日に韓国併合条約が発効し、大日本帝国が大韓帝国を併合することになった。日本の学校教育では授業を現代史にあてる時間が決定的に不足しているから、このあたりの知識は自分で補っていくしかないのだが、日本が韓国をどう扱ったのかということについて(史実を正確に踏まえたものであるかどうかは別にして)色々と語られることはあっても、その韓国はなぜ併合されたのか、彼らの内にあった原因について言及されることは意外に少ないものだ。

 そんな中で、2000年に出版された『韓国併合への道』(呉善花 著、文春新書)は、李氏朝鮮の末期から韓国併合までの時代に韓国内部が抱えていた問題を整理した数少ない書籍であった。あれから12年。同じ著者による『韓国併合への道 完全版』が今、書店に並んでいる。

 第一章「李朝末期の衰亡と恐怖政治」から第九章「民族独立運動と日韓合邦運動の挫折」までは前版と同じで、その前版では「終章」とされていた第十章が「韓国併合を決定づけたもの」と改められ、それに続いて第十一章「日本の統治は悪だったのか?」と第十二章「反日政策と従軍慰安婦」が今回加筆されている。

 竹島の領有権問題を巡り、特にこの夏以来日韓の対立がヒートアップしている中、この『完全版』の刊行は結果的に極めて時宜を得たものになった。そして、今回の加筆部分もさることながら、前版で指摘されていたことが今もなお韓国の現状を的確に説明していること、このような韓国現代史への私たちの知識が全く不足していることに改めて気付かされる。
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 日本では、西郷さんの時代の「征韓論」や、日清・日露の戦役の際の日本軍の通り道として末期の李朝が描かれることはあっても、日露開戦の直後に調印された日韓議定書や同年の第一次日韓協約、更に翌年のポーツマス講和条約に基づいた第二次日韓協約で韓国統監府が設置され、韓国が完璧に日本の保護国となった過程が語られることは非常に少ない。

 そして更に知られていないことは、
●日露戦争の終結と第二次日韓協約の後、1907年から1910年までに韓国各地で起きた反日義兵運動という名のゲリラ戦は、守旧的な「衛正斥邪」を掲げた儒生や、解散を命じられた軍人たちによって引き起こされたものだが、それは組織や地域を越えた横の連帯・大同団結に至ることがなく、彼らに比べてずっと少数の駐留日本軍によって鎮圧されてしまったこと。
●同時期に都市部の知識層を中心に展開された啓蒙愛国運動も、言論や啓蒙では広く国民の支持を集めることが出来ず、諸団体の間でも連帯の動きが見られなかったこと。
●それらとは正反対に、日本との同盟関係を強化し、更には日韓合邦を進めることで近代化を進めて力をつけ、将来の独立に向かおうとする日韓合邦運動の動きが韓国内部にあったこと。
などであろう。

 三点目の日韓合邦運動は注目に値するもので、李容九(1868~1912)をリーダーとする一進会は、今でも韓国では「日本の傀儡」、「売国奴」のレッテルを貼られているそうだが、国内が万事バラバラな当時の状況下では最大級の勢力であったという。外国との合邦という、世界にも他に例のない形を経由して最終的な民族の自主独立を彼らが目指そうとした時代背景は、客観的に見れば以下のようなものであったのだろう。

 「深刻化していく朝鮮の無力化に乗じて繰り広げられた、1884年から1904年に至る外国勢力によるシーソーゲームのなかで、改革を志す朝鮮人は、清朝中国はもっとも反動的であり、帝政ロシアの反動ぶりも似たりよったりで、米国は朝鮮に無関心で、韓国政府は無能であると感じていた。ひとり日本のみが、積極的に明治の改革を推進しており、彼らにおおいに訴えるところがあった、日本からは朝鮮に数千人の移住者があり、有効な市場網をはりめぐらせ、もっとも活動的な顧問団を送り、そしてなによりも軍隊を駐留させていた。この時代の大部分の改革者は日本をあてにしたのであり、日本もまた全般的に彼らを支援したのであった。」
(『朝鮮の政治社会』 グレゴリー・ヘンダーソン著、鈴木沙雄・大塚喬重訳、サイマル出版会)

 「日清戦争を経て日露が決定的に対立するに至るまでに、政府、官僚、東学、独立協会などは、いずれも、韓国が自立・独立国家への道を歩むための指導原理を指し示すことができなかった。さらには、彼らがそれぞれの立場や枠を超えて大同団結し、挙国一致の民族的な結集を目指そうとする、連帯運動への動きも起きることがなかった。」
(『韓国併合への道 完全版』 第九章より)

 そうであれば、残された道は日本との合邦を目指すことしかない。一進会の活動には、武田範之、内田良平といった日本人たちとの連携があり、何よりも樽井藤吉の『大東合邦論』(1893年)から思想面で大きな影響を受けたようだ。それは民間レベルで生まれた、アジア諸民族の連帯をもって西洋列強に対抗しようという「大アジア主義」の思想である。

 「そこから浮かび上がってくるのは、一国家一民族による近代民族国家の建設ではなく、諸民族が対等の資格を持って集まり、一つの国家を形成していこうという、広域アジア多民族連合国家建設の理念である。
 こうした彼らの理想は、国家を超えていたというよりは、国家意志に対する認識の甘さを物語るものといわなくてはならない。おそらく、攘夷の思想を取り除いて相互敬愛を軸に結びつく、中華帝国に取って代わるアジア連邦をイメージしていたのだと思う。」
(『韓国併合への道 完全版』 第9章より)

 企業同士の「対等合併」ですら、それが成功することは滅多にないものだ。ましてや国家どうしの合邦となれば、実際には様々な困難がつきまとう。1910年の日本による韓国併合は、彼らが目指した「日韓合邦」と異なる展開となり、一進会のメンバーたちが「日本に裏切られた」という思いを持ったのは当然のことだろう。そしてそれは、日本以外の国との合邦を目指したところで、彼らが相手国と対等の立場を確保できることなど決してなかった筈である。
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 「私には、西欧から来た『近代民族国家』という理念は、当時のアジアではそう簡単に了解されていたものとは思えない。また、西欧との接触によって近代的な民族の自覚が生まれたにせよ、それを実現する力量をもった政府もなく、また政府を倒して国際的に独立を自力でかちとるだけの条件が国内に十分に育っているとは言えないとき、どのようなテーマが生まれるかも考えなくてはならない。
 事実、中国にしろ韓国にしろ、改革派はみな外国の力をあてにしたのである。いや、あてにするしかなかったのである。欧米・日本・ロシアなどの列強の勢力バランスとどう関係すればよいか、それを考え、そこを巧みに乗り切っていくところにしか民族の自立・独立への可能性はなく。そこへ向けた努力なしには他国の植民地と化すしかなかった。
 それが中国と韓国のおかれていた状況であり、日本もある程度は同様の状況にあったとみなくてはならない。」
(前掲書 第九章より)

 私が声を大にして言いたいのはこのことだ。東アジア地域が抱える弱さは、「民族の尊厳」についてはやたらと神経過敏に反応するくせに、その民族が一つのまとまりとして生きていく器であるはずの「民族国家」をどのように作り上げていくのか、そのことに対する意識があまりにも稀薄なことである。

 「民族」と聞いただけで頭に血が昇ってしまう一方で、国を良くも悪くもし得るのは一人一人の「国民」であるという自覚がないのだ。そんな状態で叫ぶ「民族のプライド」ほど空虚なものもないだろう。「反日デモ」で国旗を燃やし、他人の所有物を破壊し、商品を略奪する。そんなことを「民意」と呼ぶのなら、民意の名が泣こうというものだ。

 まあ無理もない。東アジアでは欧米のように市民革命の理論を練り上げた歴史もなければ、国民一人一人が国と社会契約を結ぶ、そのための拠り所が「法による支配」なのだということへの理解もないのだ。あるのは空理空論を振りかざす朱子学だけだった。従ってこの地域では、「上からの改革」によって近代化を目指すしかなかったが、それを遂行すれば伝統的な社会の混乱が必ずつきまとう。それを自力で乗り越えることが辛うじて出来たのは日本だけで、近代の歴史はそのあたりが中国・朝鮮との分かれ目だったのだ。

 それぞれの国が歩んできた近代以降の歴史は、決して消し去ることができない。そして、外国勢力に翻弄されたという歴史を持つ場合、それは本書が詳らかにしている通り、エイリアンから一方的な攻撃を受けたのではなく、外国勢力につけ込まれるだけの内なる理由も必ずあったのだ。

 「反日デモ」が起きるたびに、それはその国の過去と現在の内面を鏡のように写し出しているのだと、私は思うようにしたい。


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