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ワンサイド・ゲーム (1) [政治]


 12月16日は、師走の東京にしては随分と暖かくて穏やかな天候の日曜日となった。前日の冷たい雨が嘘のように、朝からきれいな青空が広がっている。

 司法修習生として先月から地方都市で暮らしている息子が、用事があって木曜の夜から帰って来ていたので、我家は久しぶりに四人揃っての日曜日の朝食。そして食後のお茶で一服した後、私たちは四人で投票に出かけた。

 師走の衆議院選挙は29年ぶりのことだそうである。何かと忙しい時期ではあるが、昔と違って今は期日前投票もしやすくなったから、投票に行けない理由にはならないだろう。私たちが投票所に出向いた午前10時前も、その小学校が近所のスーパーの近くということもあって、「日曜朝市」への買出しがてら投票に来たと見られる家族連れも多く、投票の出足としては悪くないように見えた。

 それなのに、終わってみれば今回の投票率は59.32%で、戦後最低記録を更新したそうである。そして、その結果は(メディア各社が事前に報じていた通り)自民党の圧勝と民主党の大敗、そして第三極では「維新」の台頭という姿になった。2005年の「郵政民営化解散」による総選挙以来、与野党どちらかが圧勝するワンサイド・ゲームが3回続いたことになる。

 2000年6月の第42回衆院選で民主党が議席数127の第二党に躍り出て以来、日本でも「二大政党時代」の到来が語られるようになった。だが、その後の総選挙は自民・民主両党の政策を争点として民意を問う場になったのだろうか。今回も、二大政党間での政権交代を賭けた選挙であった筈なのだが、それでいてこの投票率の低さは何故なのか。その前に、そもそも我国にとって「二大政党時代」とは何なのだろう。

 近代日本において、政党には(無産政党を除けば)二つの出自があるとされる。板垣退助に代表される自由党の系譜と、明治14年の政変で下野した大隈重信による立憲改進党(後の進歩党)の系譜である。1898(明治31)年6月、藩閥政治に対抗するために両党は合同して憲政党を結成。日本初の政党内閣とされる第一次大隈内閣(いわゆる隈板内閣)の与党となるのだが、すぐに内部対立が起こり、この年の秋には解党して二つに割れた。旧自由党系の(新)憲政党と、旧進歩党系の憲政本党である。時代は日露開戦の6年前だった。

 その2年後、伊藤博文が画策していた新党設立構想に、(新)憲政党の議員の殆どが合流。そこで生まれたのが立憲政友会だ。もはや自由党時代の板垣色はなくなり、国家の利益を最優先し、民党に対する吏党(政府を支持する政党)という、まさに伊藤博文個人の政党となった。そのメンバーには官僚出身者が名を連ね、地方地主や資本家層を主な支持基盤として、以後の日本の保守本流を形成していくことになる。
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 一方の憲政本党系は民党の立場を取る人々だから、政友会に比べると離合集散が多く、以後の経緯も複雑だ。政府を批判する立場である以上、日露戦争のように国全体が一つの目標に向かう時は立ち位置が難しい。野党として政府と政友会との関係をなかなか切り崩せず、内部対立もあって、結成から12年で憲政本党は解党して立憲国民党に衣替え。そして、1913(大正2)年に政友会も含めた政党側が第三次桂内閣を倒した第一次護憲運動(いわゆる大正政変)の頃には、再び立憲同志会と立憲国民党に分裂した。(立憲国民党は後に革新倶楽部へと姿を変える。)
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 だが、ポスト桂として生まれた山本権兵衛の内閣がシーメンス事件で総辞職したために、隠遁していた大隈重信にタナボタで政権が転がり込むと、立憲同志会は与党となり、反・政友会の諸党を吸収して1916(大正5)年の秋に憲政会を結党。そして大隈内閣による第一次世界大戦参戦の翌年に行われた総選挙で、第一党に躍り出る。しかし、続く寺内正毅内閣で憲政会は野党の立場にあり、選挙にも敗北。逆に、寺内の後に組閣の大命を受けた原敬は、陸・海・外相を除く全ての閣僚に自らが率いる政友会の党員を起用し、日本初の本格的な政党内閣を実現する。政友会と憲政会という「二大政党時代」が確立していくのはこのあたりからのようだ。
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 そして、大正末期の1924年には、貴族院を背景にした清浦奎吾の超然内閣を「護憲三派」(政友会、憲政会、革新倶楽部)が倒すことになる(第二次護憲運動)。その後、犬養毅の革新倶楽部は政友会に合流し、逆に政友会からは政友本党が分かれて憲政会と共に立憲民政党を結党。時代が昭和に入り、政友会の田中義一内閣の時に行われた衆議院選挙(日本初の男子普通選挙)では、政友会218:民政党216と、両者は拮抗した。普通選挙の実施で有権者の層が広がり、民政党は新興の中産階級や都市住民などの支持を集めたとされる。

 田中義一は「満州某重大事件」への対応を巡って昭和天皇の不信を買い、1929(昭和4)年の夏に辞任。民政党への政権交代が行われ、「ライオン宰相」濱口雄幸が緊縮財政と金本位制復帰、そして軍縮に参加する国際協調路線を掲げる。濱口の政策は国民に耐乏生活を強いるものであったのに、翌1930年2月の総選挙では民政党が273議席を得て圧勝。濱口は民意を背にロンドン海軍軍縮条約の調印へと邁進する。戦前の二大政党時代の華と言われる時期である。(この年の11月、濱口は東京駅で凶弾に倒れることになる。)

 だが、それは長続きしなかった。

 民政党の看板政策であった金本位制復帰が、折から始まっていた米国の株価暴落の時期と重なり、結果的にその後の経済恐慌への傷口を広げることになる。(但し、それは後講釈だから言えることで、バブルの崩壊というのは今も昔も、それが始まり出した頃にはまだ実感が湧かないものだ。) そうした危機にあって、二大政党はいずれの政策が危機をいち早く乗り越えるために有効であるか、本来ならばそれを論戦すべきであったのだが、1931(昭和6)年の年明けの通常国会は、そのような場からはかけ離れていた。

 与党への「反対のための反対」に精を上げる野党、多数を背に論戦に応じない与党(凶弾に倒れた濱口首相が療養中で登院できなかったという事情もあったのだが)、そして国会での乱闘騒ぎ。

 「『不景気の寒風は肌を裂かんばかりに吹きすさんで居る。失業者三十万、無宿者二千人、これに対する応急の方策は何も考えないで、代議士諸君は右の如き闘争に耽(ふけ)ったのである。果たせるかな議会に対する世論は極度に悪い』(清瀬一郎衆議院議員)
 清瀬は二大政党制による民主化に懐疑の念を抱く。日本の二大政党制は『只だ政権争奪の為めの甲、乙両組に過ぎぬ。(中略)其れで争いをしようとするのであるから、腕力の争いをするか、相手方の非行を発(あば)くかの外に、する事がなくなるのは当然である』。
 第五九回通常議会は本格的な政策論議をする場でなくてはならなかった。ところが実際には国民の共感を呼ぶような政治の言葉は消え去り、相手をおとしめるいがみ合いに終始した。ここに二大政党制は行き詰った。」
(『政友会と民政党』 井上寿一 著、中公新書)

 凶弾に倒れた濱口雄幸がついに息を引き取った日から三週間後の1931(昭和6)年9月18日、満州で柳条湖事件(いわゆる満州事変)が勃発。政府の不拡大方針にもかかわらず関東軍が戦線を拡大する一方、「協力内閣」で事態の打開を図ろうという政友会のアプローチに民政党は閣内不一致を起こし、若槻内閣は総辞職。1932(昭和7)年2月の総選挙で今度は政友会が圧勝を収めたが、首相となった犬養毅は5月15日のテロで命を落とす。二大政党が競い合う形はその後2回の総選挙まで続いたものの、最後に待っていたのは1940(昭和15)年10月に第二次近衛内閣の下で行われた、既成政党の解党と翼賛政治体制への移行であった。

 翻って21世紀の現在、軍部の脅威もないのに、「二大政党制」が成果を挙げられずにいる。そのことを考える時、私たちは戦前に学ぶべきことが少なくないようだ。

(to be continued)


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